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マイクル・ワイマンの逆襲

マイクル・ワイマンの逆襲 / ボブ・クック / 米山菖子訳 / サンケイ文庫

 56歳のワイマンはMI6の職員だが、公式には大学の研究員。しかし政府の支出削減のせいで、両方の職を失うことに。折しも、イギリスに情報を提供していたスパイ網のトップが東ドイツで射殺された。MI6に内通者がいるのでは? かくして、ワイマン最後の大仕事が始まった……

 英国情報部が東側のスパイに浸透される……というスパイ小説ではおなじみの話題で幕を開けるが、話は明後日の方向に飛んでいく。無能と見なされながらも実は教養豊かで頭も切れる窓際情報部員が、CIAやKGBまで巻き込んで繰り広げる最後の仕事。終盤の展開が非常に予測しやすいという難点はあるが(これは訳者あとがきも不用意だと思う)、機知に富んだ会話や文章だけでも満足できる。「景気後退が進行中なのだ」の台詞は繰り返しギャグとして何度も使われ、ぐうたらながらも頭の冴えたワイマンのキャラクターも魅力に富んでいて楽しく読める。

 ワイマンがどんな人物かは、登場わずか数ページで十分に語られる。例えば……
ミセズ・ホッブズが掃除するたびに、彼はその後何ヶ月も何かが見つからなくてぶつぶついった。ミセズ・ホッブズには本を本棚に、ファイルをキャビネットに、用箋を文房具戸棚にしまうという、腹立たしい習慣がある。ワイマンはこのような能率主義には我慢ができなかった。
 とか。共感を覚える箇所ではある*1

 ところで、上記引用部に出てくる「ミセズ・ホッブズ」もそうだけど、作中の人名や固有名詞は、哲学者や数学者にちなんでいるものが多いようだ。そもそも主人公のワイマンという名前も、論理学者クワインの論考に出てくる架空の哲学者からとられている。大学に残っている彼の友人の名はロックやヒューム。東ドイツ高官のコードネームはプラトンで、彼のために用意された口座はスイスのデカルト銀行のもの。

*1 : ちなみに本書は再読。きっかけは、本の山を片付ける途中で手にとったらつい止まらず……というものだった。ワイマンほどではないと思うが、私の部屋もかなり散らかった状態である。

2008/10/22(水) ジョン・ル・カレ新作

 またまただいぶ間が空いてしまった。

 8月、9月のあたりにジョン・ル・カレのことに言及しているのだが、実はそのル・カレの新刊の解説を書いていた。下準備の一環として旧作を読み返していたところ、ついつい引きずり込まれてしまって抜け出せなくなってしまった。結局、ほぼ全作を読んでいたことになる。

 ル・カレの小説をいろいろ振り返ってみると、どうしてもキム・フィルビーについても触れないわけにはいかない。そんなわけで関連する本を数冊読んで、今やすっかりキムといえばフィルビーである。最近までは朝鮮半島を巡る謀略ものなどを読んでいて、キムといえばジョンイルだったのだが。
 ル・カレ、フィルビーときて、今はイギリス外交史の本などを読んでいたりする。

 読み返していて最も印象深かったル・カレ作品は、1990年の『影の巡礼者』だった。
 英国諜報部の新人教育係が、ジョージ・スマイリーを呼んできて新人たちにありがたい講演をしてもらう話。それだけだとさすがに長編としてもたないので、教育係がスマイリーの話を聞きながら、過去のあんな出来事やこんな出来事を回想する。ル・カレの小説としては「ゆるい」作品ではある。なにしろジョージ・スマイリーというキャラクターに頼って一冊書いちゃったのだから。だが、解説を書く立場で読み返すときわめて興味深い一冊だった。ル・カレがスマイリーを通じて冷戦を総括し、新たな時代にどんなものを書いていくかを語っているのだ。

 その新たな時代が始まって10年ちょっと過ぎた頃に書かれたのが、解説対象の『サラマンダーは炎のなかに』(光文社文庫、11月刊行予定)だ。原題は"Absolute Friends"なのだが、邦題は作中の台詞から。
 ル・カレがはじめて2001年9月11日以降を扱った作品だ。最近のル・カレは、ブッシュ政権の「テロとの戦い」を批判しているが、『サラマンダーは炎のなかに』にもその批判が色濃く表れている。まずは冷戦時代を背景に、英国情報部のために働く小役人と、東ドイツ秘密警察の一員との奇妙な友情が描かれ、そして21世紀に入ってからの二人の再会と、その背後にある企みが語られる。
 初期の作品以来、久しぶりに東ドイツの諜報機関なんてものが登場する。ル・カレの過去と今とが入り交じったような小説だ。

 ちなみに、ル・カレは先月"A Most Wanted Man"という新作を世に送り出したばかり。公式サイトやYouTubeで、作者本人も出てくるトレイラームービーを見ることができる。


  • 2009-02-24 Bookstack 古山裕樹
    例年だと本業がかなり繁忙状態になっているのだが、今年はややのんびりした状態。もっとも、仕事がなくなるのもまずいので、身も心ものんびりというわけにはいかないのだが。 ただ、本を読む時間を確保しやすくなったというメリットも。数日前にロバート・リテルの『CIA...

死者にかかってきた電話

死者にかかってきた電話 / ジョン・ル・カレ / 宇野利泰訳 / ハヤカワ文庫NV

 わけあってル・カレの作品をいくつか読み返している。

 かつて共産党に所属していた──外務省の官僚フェナンの過去を暴露する匿名の密告。諜報部員スマイリーはフェナンに会い、彼を疑う必要がないことを確信し、本人にもそのことを告げていた。彼の嫌疑は晴れたのだ。
 にもかかわらず、フェナンは死んでしまった。嫌疑を苦にしての自殺。そんな解釈を、スマイリーは受け入れることはできなかった。事件の夜、フェナンが翌朝にサービス電話をかけてもらうよう依頼していたことが判明し、疑念は確信へと変わった。調査を進めるスマイリーの行く手には、東ドイツ諜報部のたくらみが潜んでいた……。

 ジョン・ル・カレのデビュー作である。
 後の作品でもそうだが、ル・カレはしばしば本筋から離れた、かといって脇道とも言えない微妙な位置のエピソードから語りはじめる。本書の冒頭はこうだ。
終戦まぢかになって、レディ・アン・サーカムはジョージ・スマイリーと結婚した。
 以下10ページにわたって、スマイリーの人物像、そして生い立ちと経歴が語られ、そしてようやく、スマイリーが深夜にタクシーで職場に向かっていたことが知らされるのだ。
 ちなみに、ここで語られるスマイリーという人物の特性は、後の作品群でもまったく揺らぐことはない。
かれ自身の推理能力を実地に応用して、人間行為の謎を探究する理論作業
 スマイリーがやってるのはいつもこれだ。本書では外務官僚の死の真相を解き明かすことになるが、その手順はまさに本格ミステリ。ラストでは、いささか殺風景な文体で事件の意外な解釈が綴られている。
 ル・カレというとどうしても『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』あたりの重厚さが印象深い。この本も決して軽快に書かれているわけではないが、短いのでル・カレらしさを満喫しつつも短時間で読み終えることができた。