流れよわが音楽、とスパイは言った

ジョン・ル・カレのスマイリー三部作。英国情報部のスマイリーと、ソ連のカーラとの対決をしめくくる第三部『スマイリーと仲間たち』では、スマイリーがかつて妻に贈ったライターが、物語の演出として印象深く使われている。

フィクションの中で、登場人物の思いと結び着いた品が効果的に用いられるシーンは珍しくない。

最近のデジタル機器がそういう場面に用いられることは少ないけれど、iPodをうまく使った作品があった。
キム・ヨンハ『光の帝国』と、オレン・スタインハウアー『ツーリスト 沈みゆく帝国のスパイ』だ。

『光の帝国』の主人公は北朝鮮から来た工作員だ。20年前に韓国に潜入し、彼の正体を知らない女性と結婚し、子供も生まれ、事業も営み、長年ソウル市民として暮らしてきた。そんな男が、ある日「祖国に帰って来い」という指令を受けるところから物語は始まる。身辺整理をして、北朝鮮に戻る準備をする男の、一見ふだんと変わらない、でも確実に異なる日常が描かれる。

物語の序盤。荷物をまとめていた男が、iPodを持って行こうかどうしようか、と逡巡する場面がある。そのくだりでの、音楽についての記述がおもしろい。

ギヨンは行進曲の国から来た人間だった。彼が出てきた国では、音楽はひとり楽しむものではなく、ともに歌うものであり、スピーカーから街じゅうに響きわたるものだった。

そういえば、同じく北朝鮮の工作員を主人公にしたアダム・ジョンソン『半島の密使』でも、音楽は「ともに歌うものであり、スピーカーから街じゅうに響きわたるもの」として描かれていた。

iPodを通じて、音楽を個人のものとして持ち運ぶ社会と、音楽を集団のものとして扱う社会とが対比される。iPodをどうしようかと思い悩むベテランスパイの姿は、ちょっとした悲喜劇だ。

『ツーリスト 沈みゆく帝国のスパイ』は、CIAの腕利きエージェントだった男を主人公に、9.11以降の世界の混沌を描くスパイ小説だ。2001年9月10日に幕を開けるあたりがなんとも象徴的。
主人公のミロは、しきりとiPodで音楽を聴いている。

ミロは電話を切ってカーラジオをつけると、ノイズのとぎれぬ地方局をつぎつぎに切り換えたが案の定つまらなくて、今回の移動時間の半分をきいてすごしたiPodを取り出した。

ミロはiPodのメドレーにききいった。六〇年代のフランスの曲のつづきで、きけば気も晴れるんじゃないかと思った。

ふと、思いついてiPodを取り出し、フランス・ギャルの歌に不安をまぎらせてもらおうとした……が、だめだった。

iPodは彼の心情と密接に結びつき、時には気をまぎらせ、過酷な世界を生き延びるミロの心を支えている。気に入った曲に選び、耳を傾け、危険と隣り合わせの日々を過ごす。

やがて物語が加速するにつれて、ミロは音楽どころではなくなってしまい、一時はiPodとも引き離されてしまう。終盤、iPodが彼の手元に戻ってくるところで、物語も無事に幕を閉じる。

スマイリーのライターと異なり、品物自体が語るべき来歴を背負っているわけではない。だが、気に入った音楽を持ち運ぶという機能のおかげで、面白い役割を担ってる。

最近、『ツーリスト』の続編が刊行された。これから読むのだが、ミロは相変わらずiPodを愛用しているのだろうか。

ツーリスト 沈みゆく帝国のスパイ (上) (ハヤカワ文庫NV)ツーリスト 沈みゆく帝国のスパイ (下) (ハヤカワ文庫NV) 光の帝国

カテゴリー: スパイ小説, 小説 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です