24年目の七胴落とし 

『メアリー・ポピンズ』の一編に、赤ちゃんは動物と会話できるけれど、成長とともにその力を失ってしまう、という話があった。
神林長平『七胴落とし』に描かれる構図とよく似ている。

『七胴落とし』は24年ぶりの再読である。
最後に読んだころは10代半ばで、つまり主人公より年下だった。それが今では主人公の倍以上の歳だ。

快適な小説では全くない。焦燥と苛立ちに満ちた作品だ。
大人になると失われてしまう感応力。言葉を使わずに意思を通わせ、幻を生み出し、他人の身体まで操ってしまう。その力を使って、若者たちは危険なゲームに興じる。

この言葉が物語を象徴している。

感応力を失うことが大人になるということなら、ぼくは大人になんかなりたくない。

ビルドゥングスロマンとは逆方向の、成長に伴う喪失の恐怖。暴発しそうな何かを内に抱えて過ごす日々。爽やかさとは無縁の、鬱屈した心情。

最初にこの本を読んだころの自分を思い返してみると、比較的のんきに過ごしていて、主人公のような切迫した気持ちは大してなかったように思う。
とはいえ、決して皆無ではない。ささやかながらも15,6歳なりの何かがあって、ゆえにこの小説は心に刺さったのだろう。

再読したけれど、当時の自分にとって、いったい何が刺さったのかわからない。いや、分からないことはない。想像はできる。でも、それは現在の自分が再構成した、「過去の自分が考えそうなこと」にすぎない。実感はない。そもそもハズレかもしれない。
作中で大人になった者は、自分が感応力を持っていた記憶すら曖昧になってしまう。そのことに似ている。
ああ、もうそっち側にはいないんだ。感応力をなくしてしまったんだ。そう感じた。

よくぞこの小説を見つけて読んだ、よくやった、と24年前の自分に伝えたい。過去の自分を思い出したからというより、むしろ過去の自分との断絶に気づくことができたから。

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