……なんですかこれは。
困ってしまった。人の話をジョークだと思って笑ったら、実は相手が真剣だったときのような気まずさを感じた。
すさまじく狂った話なのに、ちゃんと推理小説という枠組みにおさまっている。だから居心地が悪い。島田荘司が大風呂敷をたたみ損ねたときのような居心地の悪さ、といえばいいだろうか。
じゃあ失敗作なのか? 確かに、前半あれだけ巧みに不安を煽り立てておきながら、最後の謎解きは辻褄あわせに終始して、後半はごちゃごちゃした展開になっている。そういう意味では失敗作だ。
でもこれは、小奇麗にまとまっているだけが取り柄の小説なんかと違って、忘れてしまうのは難しい。いわゆる普通のミステリから微妙にずれた、いびつな小説。「よくできている」とは言いづらいけれど、異質であるがゆえの魅力を備えた作品だ。もしかしたらバーディンが書いていたのは「ミステリ」じゃなくて、「ぼくの考えたミステリ」だったんじゃないだろうか。
最近のものだと、デイヴィッド・アンブローズの『迷宮の暗殺者』もずいぶん変てこな話ではある。けど、俺たちのデイヴは「変な話を書くぜ!」と自覚していて、「変なポイント」をアピールするタイミングを計算している。デイヴと俺たちとの間には共通の認識ができている(当人に確かめたわけじゃないけど、俺たちには判るぜ!)。
でもバーディンは違う。異質さを無自覚に垂れ流している。この人、自分がとてつもなく奇妙な作品を書いちゃったことに気づいていたのだろうか? 「どうして自分の作品だけキワモノ扱いされるんだろう」なんて悩んでいたんじゃないだろうか?
第三作『悪魔に食われろ青尾蝿』を書いた後のバーディンは、もっとありきたりな推理小説を書くようになった。ミステリと言うものをちゃんと理解したのかもしれない。けれど、それらは今ではほとんど評価されていないらしい。
バーディンは「ミステリ」と「ぼくの考えたミステリ」の溝を埋めてしまったのだろうか? だとしたら──少なくともミステリ読者にとっては、大きな損失だった。