暁の密使

暁の密使 北森鴻 / 小学館

時は明治30年代。日本は清との戦争に勝利して大陸進出を拡大し、ロシアとの間に緊張が高まってゆく。そんな政治情勢とは無関係に、仏道に生きる一人の僧侶がいた。その僧侶──能海寛は、廃仏毀釈を経て低迷する日本の仏教界のために、チベットを目指して旅立つ。だがそこには、彼自身も知らない、日本政府の秘策が隠されていた……。

チベットに向かった日本の仏教者と言えば河口慧海が有名だが、能海寛も実在の人物。ただし、ラサにたどり着いたことが記録されている河口に対し、能海は国境付近で消息を絶ってしまった。その空白に向かって空想をふくらませたのがこの小説だ。

彼の行く手を阻むのは、清朝や英国商社のエージェント。能海が抱えたある秘密のせいで、彼は日本政府の密使と見なされていたのだ。英国冒険小説では主人公の心強い味方として登場するネパールのグルカ兵が、ここでは不気味な敵として迫る。

英国とロシアの、大陸を舞台にしたパワーゲーム。そこに加わる日本や清朝。そんな陰謀が渦巻く中をゆく主人公は、仏教復興を願う純朴な僧侶。この組み合わせの妙が、物語に波乱をもたらし、面白さをふくらませている。

そして障壁は人間だけではない。チベットの苛酷な自然環境もまた、能海を苦しめる。この作品、たいへんストレートな秘境冒険小説なのだ。

冒険小説としての楽しさもさることながら、終盤にいたって明かされる、能海の抱えた秘密の正体があまりに強烈で忘れられない。あまりにも意外で、最初に明かされたときは何のことだか分からないくらい意外……というところは、『百番目の男』や『日本核武装計画』のアレを思わせる。

ところで、チベットの最高権力者はダライ・ラマだとばかり思っていたのだけど、当時のチベットは祭政分離で、宗教的な権威はダライ・ラマにあり、世俗の権力はチベット王が握っていたのですね。……ということを初めて知った、チベット事情に疎い人間でも十分に楽しめるお話です。

ついでに

陰謀と幻想の大アジア/海野弘
能海寛の抱えた秘密の正体は、海野弘『陰謀と幻想の大アジア』で詳しく説明されている、かつての日本の大陸幻想にも通じるものがある。

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