港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。
ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を、ひさしぶりになんとなく再読。冒頭の一文を読んで、そういえばTVの画面が砂嵐になったのを見たなあ、と思い出す。
だが、買い換えて日が浅い自宅のTVには、もう「空きチャンネルに合わせる」という概念自体が存在しない。仮に合わせることができたところで、あの砂嵐はおそらくアナログ放送にしかないものだろう。
空きチャンネルは空模様の喩えだが、少し読み進めるだけで、さらに場違いなものが出てくる。
ソ連製の真菌毒。ソ連相手のサイバー戦争。
そう、ソ連だ。ソ連が存続する近未来。こういう古び方は、1980年代の作品が負った宿命かもしれない。
初めて読んだのは高校生のころで、おりしもソ連はなくなろうとしていたころだった。当時はもちろん感じなかったけれど、いまや「ソ連のある近未来」には懐かしさが漂う。
TVの砂嵐。ソ連が存続する近未来。
かつて未来を感じさせたチバ・シティ・ブルーズは、もはやノスタルジックな響きを帯びている。決して来ることのない未来は不思議に懐かしい。ガーンズバック連続体ならぬギブスン連続体の事象として、昔読んだときとは違った輝きを放っていた。
TVの砂嵐を見たことのない人に、港の空の色はどんなふうに捉えられているのだろうか。