ホラー大賞選考の席上、林真理子が不倫称揚本の著者とは思えないような道徳心あふれるコメントとともに切り捨ててしまった作品。
……というより、「深作欣二が映画化します」って言ったほうがいいのかな、最近は。
この本が書店に並んでから、もう1年以上が経つ(当初はスキャンダル性で売ろうとするかのような帯をまとっていた)。いろいろなところで非常に高く評価された。
それと同時に、この作品の持つ重大な欠点も、絶賛の嵐の吹き荒れるなかで常に指摘されていた。
たとえば我孫子武丸氏は、本書の舞台は「ファシズムが成功した日本」というパラレルワールドのはずなのに、登場する中学生も描かれる事象も現代日本そのままという不整合を、「物語にノセてくれない」原因として挙げている(http://web.kyoto- inet.or.jp/people/abiko/diary.htm 、2000年6月4日分)。
確かに、そういう点が、この作品に熱狂したかもしれない人々を遠ざけているのだろう。読者が世界設定のあいまいさを意識してしまうというのは、異世界を描いた小説としては明らかにマイナスだ。
だが、私がこの作品に「恐怖」を感じたのは、むしろこの「異世界らしくない異世界」という中途半端な背景のためだった。
本書に描かれる全体主義は、「現代日本とまったく異なる世界での全体主義」ではない。この全体主義を支えているのは「みんなそうしているから」「誰もやめようと言わないから」という、日本人なら頻繁に遭遇するであろう意思。……そう、これは異世界の話ではない。すぐそこにある全体主義なのであり、その身近さゆえに恐怖を感じることができるのだ(たぶん、先日の選挙で自民党に投票したような人には一生縁のない恐怖感だろう)。中途半端に現代日本の風俗がそのまま描かれていることも、「身近さ」を際立たせるのに一役買っている。
この恐怖は、たぶん偶然が生んだものだろう。だから、「選考委員のコメントはさておき、この冒険活劇は確かに『ホラー大賞』じゃないよな」というのが読んだ直後の感想だった。
でも、「みんなそうしているから」というのが何かの動機として通用してしまう社会に住んでいると、そしてそれがますます強く感じられるようになってくると、こういう恐怖を描いた作品こそ「ホラー」だろう、という気がしてならない。