主人公は、自分だけの妄想の世界を抱いて生きるひきこもりの青年・ハイム。彼の妄想と外の世界とのバランスが崩れたとき、悲劇が起きる。
ハイムの妄想が、アルゴンキン・ホテルというひとつの閉鎖空間を形作っているところに、ふと綾辻行人の館シリーズを連想した。あのシリーズでは、館の内側と外側のバランスが崩れて殺人事件に至るという展開が多い。そして、外側=正常、内側=異常なんていう単純な図式を無邪気に持ち込まないところは、この小説と同じだ。
たとえば、ハイムに対置される警察官たちの姿。彼らは法と秩序を代表しているわけだが、そのいびつな描かれ方を読んでしまうと、外の世界=正常、ハイム=異常なんてありきたりな図式はとても浮かんでこない(もっとも最近の日本では、警察もかなり【自主規制】であるという認識が広まっているけど)。
そう、どいつもこいつも壊れているのだ。
「羊たちの沈黙」以降の、柳の下のどじょうすくいに殺到したサイコスリラーに感じた不満は、異常殺人者を「向こう側の人間」として無邪気に線を引いてしまうことだった(追記:このへんはちょっと意見修正。)。
ここには(そして他の優れた作品もそうだが)そういう区切りはない。誰だって、何かの弾みで壊れてしまうかもしれない。美しく残酷なクライマックスを読むと、そもそもこの社会にきっちり適応しているヤツほど、実は壊れているのかもしれないと思えてくる。
そんな世界像を描いている小説だから、人物描写もどこか戯画めいている。それでいて妙に生々しい。これは、「パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない」や「鏡の中のブラッディ・マリー」にも見られる、ヴォートランの巧さなのだろう。
ちなみに、もっとも胸に刺さったのはこの台詞。
ヒーローだけじゃない。作家だってそうだよ、ハイム坊主。たとえば、誰かが何か読むにたえるものを書いたとしよう。すると、その作家はたちまち有名になって、どこかに分類される。その結果、だめになるんだ。過去の偉大な作家と比べられて、この作家に似ている、この作家に近いと分類された結果ね。(p.225)
私も“この作家に似ている”“この作家に近い”と書いてしまいがちなので、これはなかなかに痛烈だった(まあ、自分がその作家をだめにしてしまうほどの影響力があるとは思わないが)。
ふと見れば、この本には「パルプ・ノワール」というラベルがついている。そう、“どこかに分類”されてしまっているわけだ。もしかしたら、これはとても不幸なことかもしれない。
■慶応大推理研の例会後
2002年12月に、慶応大推理研がこの本の読書会をやっていたので、OB数人でもぐりこんでみた。
そのとき、あるいはその後に思ったことをいくつか。
- これは狂気の物語ではない。むしろ、狂気への逃避に憧れながら、それを実現できずにいる男の悲劇である。
- そんな角度から見直すと、これはなんとも泣ける話である。
- 江戸川乱歩『パノラマ島奇譚』にもどこか似ていないか。
- 『パノラマ島』の主人公は、自分の妄想をパノラマ島の形で実現する。
- が、「外」の論理とのせめぎあいに敗れて破局を迎える。
- ここで「外」を体現しているのが明智小五郎だったりするのも意味深。