ファイロ・ヴァンスは電子書籍の夢を見るか?

 去年のことだが、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を読み返すことになった。こんなことでもないとわざわざ買わないだろうと思い、電子版を買ってみた。
 昔読んだときの記憶で、非常に読みにくく面倒くさいものを想像していたのだが、これが意外に読みやすかった。

 訳が新しいから、というのが最大の理由であることは間違いない。旧訳は決して読みやすいとはいえず、あれで読んだせいで、きわめて面倒くさい小説である……という印象を抱いていた。ところが新訳で読むと、これがなかなか軽快。面倒くさいのは小説そのものではなく、ファイロ・ヴァンスの人物像と、本文のあちこちに埋め込まれた注釈だったのだ。

 その注釈にリンクがついていて、すぐに参照できるのも、読みやすさの理由のひとつだ。
 読めばわかることだが、ヴァン・ダインは鬱陶しく注釈を入れる作家である。その注釈で、ただ闇雲に蘊蓄を垂れ流しているわけではない。
 たとえば『僧正殺人事件』の場合、「ある書店の人に聞いたんだけど、事件当時は『マザー・グース歌集』がバカ売れだったらしいですよ」とかもっともらしいことが書かれている。端役の名前にも注釈があり、「当時ニューヨーク市警で○○な役職についていた」「『カナリア殺人事件』で○○をした刑事」なんてことを書いている。作中人物の著作のタイトルにも注釈がついていて、どこの出版社からいつ刊行された、なんてことがまことしやかに書かれている。あくまでも実際に起きた事件の記録らしく見せようとしているのだ。小説家としてはあまり上手くないけれど、それらしいフレーバーをつけようと努力していたことがうかがえる(効果のほどはさておき)。

 ただしこの注釈、本の形では読みにくいことこの上ない。注釈の説明部分は巻末にまとまっているので、本文と巻末を行ったり来たりすることになる。現在読んでいるページに加えて、対応する注釈のページも把握しておかなくてはならない。これがはなはだ面倒であり、ゆえに「ヴァン・ダイン=面倒くさい」という認識ができあがっていたのだろう。
 電子版であれば、リンクをつつくだけで本文と注釈とを往復できる。注釈という形態はそのままで、面倒もなく読み進めることができる。

 この小説に埋め込まれた大量の注釈。ヴァン・ダインが書いていたころは、印刷物という制約があったから、この程度で済んでいたのではないかと思う。
 もしも彼の生きていたころにこんなテクノロジーがあったら、これ幸いとばかりにさらに注釈を濫用して、ほとんどわけのわからないハイパーテキストを構築していたのかもしれない。それはそれで読んでみたい気がするけれど、どんなユーザインタフェースを用意したところで、かなり面倒くさいものに仕上がっていたのではないかと思う。

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