信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス

信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス 宇月原晴明 / 新潮社 (→新潮文庫

 1930年、ベルリン。アルコールに溺れながら撮影所通いの日々を過ごすアントナン・アルトーのもとを訪れた一人の日本人青年は、ローマ皇帝ヘリオバルガスと織田信長の意外なつながりを彼に説いた。二人はどちらも、古代シリアで崇拝された太陽神の落とし子である、と。青年の家に伝わる口伝によれば、信長は両性具有者であったという……

 第11回日本ファンタジー小説大賞受賞作。いわゆる伝奇小説と呼ばれるタイプの作品であり、ある史実について、奇想に満ちた裏側、いうなれば「幻の歴史」を提示することに力が注がれている。

 にわかに話は変わるが、ミステリに描かれるモチーフに「見立て殺人」というものがある。何かの歌詞や物語の筋立てをなぞるかのようにして事件が起きる、という趣向だ。マザー・グースの歌詞どおりに殺人事件が起きる、というミステリは昔の英米でさかんに書かれた。日本でも、俳句の情景と同じように人が殺される『獄門島』(横溝正史)などの例がある。そして、本書で「幻の歴史」を提示するために用いられるのが、この手法である。

 ここでの主役は言うまでもなく信長。史実における彼の行動が、異なる物語と重ねあわせられる。この「物語」の選択の妙、そして重ね合わせ方の巧みさが、本書を奇想に満ちた作品に仕上げている(特にクライマックスとなる本能寺の変のくだりは、紡ぎだされるイマジネーションの豊穣さにただただ圧倒されてしまう。異様なまでに理詰めの幻想がもたらすこの場面の迫力、まさしく謎解きミステリの解決編に近いものがある)。

 「見立て殺人」を扱うミステリの解決で重要なのが、「なぜ犯人はこんな手間のかかることをやったのか?」という理由の提示で、これが「犯人が精神異常者だったから」などという安易な解決だったりすると非常に悲しい。

 本書では、この「理由」の解決がきわめて論理的になされている。もちろん、その「論理」は日常レベルのものではなく、いわば異界の論理なのだが。このような、幻想をもとに組み立てられた「異界の論理」で史実を解釈し、読み替えるという方法論が、本書の魅力の源泉だろう。

 1930年代のベルリンから信長の物語をふりかえるという本書の構成は、信長の素性に関する物語を語る上で、同時代人の視点だけでは不足だからだろう。イエズス会士たちにその任を負わせることも可能だろうが、あまり異教の細部に通暁しているイエズス会士というのも問題がある。

 そして、当時のベルリンに何が存在したかは挙げるまでもないだろう。かくして古代の異教と信長の時代に加えて、大戦前夜のベルリンまでもがつなぎ合わされる。ここでアントナン・アルトーという人物の登場も、物語が彼を必要とするからなのだ。かくして、後半にはもう一つの「見立て殺人」が描かれる。

 歴史に翻弄されてしまったアルトーの末路の哀しさと、エピローグのささやかな爽快感とのバランスも快い。

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怪人対名探偵

よみがえる探偵小説

怪人対名探偵 芦辺拓 / 講談社ノベルス

 子供のころ、ポプラ社から出ていた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズをよく読んでいた。

 このシリーズ、50巻くらい出ていたと思うが、後半は『魔術師』『黄金仮面』など、もともと大人向けに書かれた猟奇的なスリラーを子供向けにアレンジした作品が収録されていた。

 これを読むのがけっこう後ろめたかった。例えば『蜘蛛男』なんて「猟奇殺人者が次々と誘拐した女性を虐待して殺す」という話。立派な「悪書」だ。ポプラ社もよくこんなのを子供向けに出したものである。願わくば、世の教育熱心な親御さんたちが乱歩の正体に気づきませんように。

 『怪人対名探偵』は、そんな乱歩作品へのオマージュだ。

 舞台は現代。怪人「殺人喜劇王」が次々と起こす残虐な殺人。これを防ごうとする名探偵とその助手。果たして両者の対決の行方はいかに……?

 気球、マネキン人形、時計台、大観覧車、パノラマ、映画館、謎の客船……。

 乱歩のスリラーにあふれていた小道具がいたるところに飛び出すだけでなく、Eメールやビデオといった現代ならではの小道具も、作品のムードを損なうことなく取り入れられている。

 ちょっぴりメタフィクション風な仕掛けも施されているのは、やっぱり「新本格」以降の作家だからだろうか。

 探偵役はこの作者のレギュラー登場人物である森江春策。茫洋とした雰囲気の好人物で、強烈な個性を放つタイプではない。だから、例えば「きゃああ(御手洗/榎木津/火村)さぁん」な読者には物足りないのかもしれない。

 しかし、こういう強烈でない探偵のほうが、怪人が大暴れするような小説にはむしろ似合っているのではないだろうか。怪人の奇矯さを際立たせるには、同じように奇矯な探偵よりも「有能な常人」のほうが有効だ。

 あいにく、作者は乱歩みたいな筋金入りの変態ではないようで、原典に比べればいささか薄味なのは否定できない。

また、細部の整合性が怪しいところ、無理があるところ、説明不足なところもないではない。

 でも、それがどうしたと言うのだろう?

 この作品について、「本格ミステリとしての整合性が云々」なんて野暮なことを言う奴は、とっとと殺人鬼に切り刻まれてしまえ(絶世の美女ならなお良い。でも、美女なら野暮な台詞は口にしないで欲しいなあ)。これはあくまでも、乱歩の猟奇変態スリラー同様、変幻自在の展開の面白さで読ませる作品なのだから。「精緻な本格ミステリとしての完成度」なんて、この勢いを犠牲にしてまで求めるべきものとは思えない(だから、メインの仕掛けもいたってシンプル)。

 少年探偵団ものと猟奇スリラーとを同時期に読んだ人々にはおすすめの一冊。派手な殺人劇と並行して、ですます調で「名探偵」と「少年助手」のやりとりが随所に挿入されているのも、そんな読者の思い出を刺激するためだろう。

 ある種の読書体験を持つ人々を対象とした「内輪」向きの作品ではあるが、「本格ミステリ」の作家が「本格ミステリ」へのオマージュを書くような自家中毒状態に比べると、微妙な射程のずらし方が幸福な結果を生んでいる作品だと思う。

……少年時代の思い出を巧みにくすぐられた私は、もはや何でも許す心境になっている。

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フィルス

お下劣ポリ公大暴走!

フィルス アーヴィン・ウェルシュ / アーティストハウス

 お下劣ポリ公の薄ぎたねえ日常。これが「トレインスポッティング」などで知られるアーヴィン・ウェルシュの最新長編っつうわけだ。

 主人公はブルース・ロバートソンってワルい刑事。女も黒人も差別するし、同僚だって平気で陥れちまうろくでなしさ。「人生はゲーム。勝者はただ一人。それはおれ」ってのが奴のモットーだ。腹の中には妙に思索的なサナダムシを飼ってんだけど、自分じゃまだそのことに気づいちゃいない。

 いちおう殺しを捜査すんだけど、なにしろこんな奴が真面目にやるわけねーよな。まして被害者は黒人だ。捜査はそこそこ、休暇はきっちり。アムステルダムでエロたっぷりのバカンスを満喫さ。とーぜんだね。

 補導した娘にイイことさせたり、なにかと非道な毎日を語る鬼畜刑事。なぜか合間に、別れた奥さんのものとおぼしき独白が挟まれているんだ。独白といやあ、ブルースの腹の中にいるサナダムシもいろいろ喋るんだよな、ひとりぼっちのくせして。でまあ、いつしか鬼畜刑事の毎日も平凡なものじゃなくなってゆくわけだ。クライマックスじゃ、腰抜かすこと間違いなしだね。

 世界そのものがひっくり返っちまう気持ちよさ。これって、ミステリのでっかい魅力のひとつだろ? ウェルシュの野郎は、クソみてえな文体でごていねいな伏線をくるんで、思いっきり世界をひっくり返してみせるわけだ。こいつはすげえぜ。

 そーいう意味じゃ、こんだけピュアなミステリもそうそうないね。

 おれとしちゃ、今ちょっと後悔しているんだ。こんなこと書いたりしなきゃ、いきなり本を読んだ奴もそんだけよけいにビックリできたからな。

 世間じゃウェルシュの野郎をミステリ作家だなんて思っちゃいねーけど、こいつは去年1年間に読んだどんなミステリよりも強烈におれのキンタマを蹴飛ばした本さ。……おっと、もちろんねーちゃんが読んだってビックリだぜ。どこを蹴飛ばされるのかわかんねーけどな。

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朗読者

ISBN:4105900188ベルンハルト・シュリンク / 松永美穂訳 / 新潮社(→新潮文庫

 ドイツ人作家の、本国ほか世界各国でベストセラーになっているという作品*1

 少年は年上の女と知り合い、やがて恋に落ちる。秘められた逢い引きの日々。女は少年に古典を朗読させ、それを聞くのを好んでいた。奇矯なところのある女は、ある日なんの前触れもなく少年の前から姿を消した。数年が過ぎ、青年となった彼は、思いもかけないところで女と再会する……。

 第一部に張りめぐらされた伏線がみごとに活かされて、それまでのエピソードの意味合いすら変えてしまう、第二部後半(全体の3分の2くらいが過ぎたところ)でのあの瞬間。それは、優れたミステリのもたらす驚きに匹敵する(そういえば作者のデビュー作はミステリだとか*2)。

 物語のすべてが「あの事実」へと収斂する第三部。それを形を変えた第一部の再演として見ると、物語の全体がある種の幾何学模様のように精緻に組み立てられていることがわかる。

 さほど長くない上に、登場人物も極端に少ないというストイックなつくりだが、実のところきわめて豊穣な物語が埋め込まれた小説。ストイックと言えば、安易な作家なら後半を「泣かせる」方向へと盛り上げそうだが、そこをあえて淡々と描いている。この点にはかなり好感が持てるので、「アメリカで映画化されるかも」と知ってちょっと不安になった。

*1 : 2008/01追記:今さら言うまでもないが、その後日本でもベストセラーになった。

*2 : その後訳された。けっこういい出来だったと思う

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バカなヤツらは皆殺し

タフな小娘、大暴走!

バカなヤツらは皆殺しヴィルジニ・デパント / 稲松三千野 / 原書房

 「キレやすい若者」という話題は最近流行りだが、本書でもキレやすい若者が大暴れする。

 ポルノビデオとマリファナまみれの日々を送るナディーヌ、「好きなものはセックスとウイスキー」と言い切るマニュ。この二人の少女がふとしたところから殺人事件の当事者になってしまうところから、物語は一気に転がり出す。

 ピンクと黄色の表紙からは想像もつかない「キレた」世界が描かれる。性描写にしても暴力描写にしても、今どきの基準ではもはや「過激」というほどのものではないかもしれない。しかし作中での性と暴力の位置づけは、たしかにある一線を踏み越えてしまっている(あるいはそう考えてしまうこと自体、私がもはや若者ではないことの証明かもしれない)。

 パンキッシュに爆走する二人の物語は、やがて過酷で痛切なクライマックスを迎える。

 この作品が志向しているのはロマン・ノワール、暗い情熱と暴力に彩られた物語だ。

 作中、何人かの作家の名前が言及される。特に重要と思えるのは(主人公の二人がシンパシーを抱きそうなのは)二人。

 ひとりは、飲んだくれ不良オヤジの視点から見た世界を描き続けたチャールズ・ブコウスキー。

 もうひとりは、パラノイアックな文体でアメリカの「暗黒」を描くジェイムズ・エルロイ(映画『LAコンフィデンシャル』原作者、というほうが有名だろうか)。

 特にエルロイの名前は、後半のかなり重要な場面で意味ありげに用いられる(ちなみにこの場面、ミステリに限らず小説、映画、音楽などの愛好者の多くにはかなりきつい一撃を食らわしている)。もっとも、作品そのものからうかがえるのは、エルロイの影響よりも、フランスで彼をいちはやく絶賛したというジャン・パトリック・マンシェットの影響なのだが。

 ロマン・ノワールは直訳すれば「暗黒小説」、実際その描く世界は決して明るいものではない。とはいえ、これらの小説は決して重苦しいだけではない。映画『LAコンフィデンシャル』をごらんになった方なら分かるかもしれないが、時にユーモアを感じさせる物語には、どこか軽妙さが漂っている。そして、それは本書も同じだ(ちなみに、エルロイへのシンパシーをことある毎に表明してやまない馳星周の作品にもっとも欠けているのが、こうした軽妙さだと思う)。

 書店では「ミステリ」として売られているわけではない。新宿南口の紀伊国屋で見かけたときは、ウィリアム・バロウズやキャシー・アッカーの本と一緒に並んでいた。どこの棚に並んでいようと、最近一部で目にする「ノワール」と呼ばれる小説に興味のある向きにはおすすめの、そしてノワール愛好者にとっては必読の一冊だ。

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ハンニバル

人を喰ったブラック・コメディ

上巻下巻トマス・ハリス / 新潮文庫

 『羊たちの沈黙』の続編。ただし、単なる『羊たちの沈黙2』ではない。

 これは華麗な衣をまとってはいるものの、まぎれもないブラック・コメディだ。

 前作『羊たちの沈黙』をまじめに読んできた人はがっかりするかもしれないが、それはおそらく作者の思うつぼ。大きくなりすぎたヒーローをどうやって始末するか、というのがこの作品に与えられた課題のひとつなのだから。

 『羊たちの沈黙』までのレクター博士の「凄み」がどこから出ていたかと言えば、「まったく内面が描かれない」という一点につきる。それが今回は、内面描写はもちろん、その生い立ちまでもがつぶさに語られるありさまだ。レクター博士は「怪物」ではない、「人間」にすぎないのだ、ということを見せつけるかのように。

  いうなれば、これは作者自身の手による偶像破壊行為。レクター博士を「アイドル」として描いたのが前作ならば、今回は「アイドルだってトイレに行く」という物語だ。

 誇張されたキャラクターたちがくりひろげる、荒唐無稽と紙一重(というか荒唐無稽そのもの)の物語を描く文体もまた、余裕たっぷりの上に悪ノリの過ぎる素敵なしろもの。きわめて悪趣味な物語であることは間違いない。

 今回、レクター博士がフィレンツェの街で芸術と文学を語り、科学への深い造詣を見せ、さらに人間以外の食材についてもグルメぶりを発揮するのも、作品の悪趣味ぶりをよりいっそう引き立てるためではないだろうか。悪趣味を引き立てるには、「悪」でない趣味を描くのが一番だ。

 クライマックスの料理シーンは大笑い。

 そしてここに至って初めて気づいたが、これはつまるところ「モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス」なのだ。

 念のため簡単に説明しておくと、「モンティ・パイソン」とは30年近く前のイギリスで放送されていたコメディ番組で、イギリス国営放送でやっていたとは思えないくらいに毒のきついギャグをふりまいていた。現在はビデオで全話を見ることができる。この「モンティ・パイソン」でしばしば描かれたのが、人肉食がらみのギャグ。あるエピソードでは、『ハンニバル』のクライマックスと似たような風景が描かれる(さすがに実写ではなく、アニメだ)。

 映像として見ると明白なのだが、やっぱりこの光景は爆笑ものである。しかもレクターは(と言うより作者トマス・ハリスは)、さらにいくつかの要素を付け加えてバカバカしさを増幅させたうえに、その後でもうひとつとんでもないことをやらかしてしまうのだ。

 このシーン、ラストにつなぐ前の、作中でもかなり重要な場面である(そういえば「モンティ・パイソン」のくだんの映像も、人食いギャグがエスカレートしてイギリス女王をも巻き込んだオチへとなだれ込む前の、重要なところに位置していた)。そんなところで読者を笑わせてしまうのだから、彼の意図はおのずと明らかだ。

 「モンティ・パイソン」がイギリス女王をネタに好き勝手なギャグを繰り広げたように、トマス・ハリスもまたレクター博士をネタにして遊んでいる、そんな印象を受けた。「モンティ・パイソン」との大きな違いは、もちろんレクター博士がハリスの創作物である、というところ。これはもう、そこまでの底力をもつキャラクターを創造できた作家の特権だろう。

 豪華なおぜん立ての上でやってのけた、壮大なポトラッチ。

 もう、レクター博士をまともな形で小説に登場させることはできないだろう*1。シリーズを重ねる毎に痛々しい存在と化してしまった「13日の金曜日」のジェイソンなんかに比べれば、彼の最後ははるかに幸せだ。

*1 : 2008/01追記:ハンニバル・ライジング(笑)。

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