吸血鬼ドラキュラ

吸血鬼ドラキュラ ブラム・ストーカー / 菊地秀行 / 講談社

 古典的名作を、現代日本作家の手で子供向けに翻案するというシリーズの一冊。

 この作品を翻案するのは、「吸血鬼で稼いだ日本人ベスト10」を作れば間違いなく上位に食い込むであろう菊地秀行。ちなみに挿絵は天野喜孝。そのスジの人にはたまらない人選だろう。

 菊地秀行は、原典に敬意を払いながらも(ここが「超訳」との大きな違い)、自由なアレンジを施している。原作では「老人」だったドラキュラを「貴公子」に変えてみせるのは序の口。原作よりも派手な展開はなかなか楽しい。子供向けということもあって、分厚い原作よりも読みやすいかもしれない。

 あとがきも、これが子供向けであることを半ば忘れているかのような暴走ぶり。「クリストファー・リーのイメージで書きました」なんて、子供に言ってどうしようというのだ。「いかがでしょうか」って、子供はあまりクリストファー・リーを知らないと思うぞ。

 原典と翻案者の組み合わせは、間違いなくこのシリーズ最強のタッグ。

 菊地秀行の、ホラーの古典に対する深い愛情が伝わる一冊だ。

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男は嘘つき、女は……

男は嘘つき、女は……ウォーレン・アドラー / 角川文庫

 ケンは作家志望のコピーライター、妻のマギーはコンサルタント。二人は、レストランでマギーのクライアントのエリオット、そして妻のキャロルとディナーをともにする。初対面のはずのキャロルをひと目見て、ケンは衝撃を受ける。20年前、深く愛しあいながらも別れざるをえなかったキャロルに生き写しなのだ。だが、彼女は年齢も経歴もあのキャロルとは異なるうえ、ケンを知っている素振りは見せなかった……。

 ……という印象的な出だしとともに幕を開ける、二組の男女の物語。登場人物を必要最少限に絞り込んで、彼らの駆け引きをじっくりと描いている。引き返せないポイントを次々と越えてゆく(あくまでも、追い詰められるわけではない)につれて、物語の空気は徐々にサスペンスを増す。

 激しい愛、というものを描く小説だが、決して単純なラブ・ロマンスではない。ポイントは、彼らがそれなりに年を取っている、というところ。「愛のためなら何もかも捨ててでも」なんてきれいごとは言っていられないし(例えば、彼らの資産に関する意識に注目)、年齢から来るあせりもないわけではない。だからこそ生まれる企み。激情に駆られるだけでなく、現実もしっかり見据えているがゆえの微妙な駆け引きがスリリングだ。

 読んだ直後には、その唐突さにやや戸惑ったラストシーンも、物語に深みを与える上では成功していると思う。しかし、ハリウッドで映画化されるとしたら、このラストは改変されそうだな(そういう性質の終わり方なのだ)。

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ヴァーチャル・ライト

ヴァーチャル・ライト ウィリアム・ギブスン / 浅倉久志訳 / 角川文庫

 「サイバー」という言葉、最近はブームの尻馬に乗ってあわてて書かれたとおぼしきビジネス書にまで出てくるくらいだ。「サイバーパンク」も、もう過去のものなのかもしれない。本書は、サイバーパンクの中心にいた作家の、ブームの狂騒が去ろうとする頃に発表された作品だ。

 『ニューロマンサー』三部作よりも、より現代に近い近未来が舞台なので、ある意味では親しみやすいかもしれない。

 視神経にじかに作用することによって映像を見せるヴァーチャル・ライト。その中に記された内容のために起きる、ヴァーチャル・ライトをめぐる争奪戦。

 読むたびに思うが、ギブスンの作品って、ストーリーそのものはやたらとありふれたスリラーなのだ。たいていはミステリタッチの冒険活劇である。この作品も、「宝物の争奪戦」という、『マルタの鷹』をはじめとして、これまでにいくつも描かれてきた物語だ。

 ストーリーはあくまでも普通のスリラー。ギブスンならではの味は、あくまでも背景だの細部だのの描き方にある。

 この小説の場合、やはり印象に残るのは大地震で崩壊したサンフランシスコの一角に生まれる奇妙な「橋」の文化である。ジャンクを取り込んだこのアナーキーな空間は、大阪大学の社会学者・山崎によって、赤瀬川源平の「トマソン」にたとえられる。そしてこの空間は、21世紀初頭の「超震災ゴジラ」による崩壊からの復興を遂げた東京–再び秩序が支配するようになった空間–と対置される(それにしてもギブスン、相変わらず日本のみょーな部分に異様に詳しい。『ガンヘッド』なんて映画、たいていの日本人は覚えてないか、そもそも知らないと思うぞ)。

 ギブスン自身とは関係ないが、翻訳者の違いもかなり印象に残る。故・黒丸尚のやたらと個性的な訳から、浅倉久志の手堅い訳になると、意外と読んでいるときの感覚が変わる。黒丸尚のは良くも悪くも個性的なので、ある意味「サイバーパンク」のイメージを決定づけていた文体なのだ。

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バットマン 究極の悪

バットマン 究極の悪 アンドリュー・ヴァクス / 佐々田雅子訳 / 早川書房

 バットマンことブルース・ウェインがたまたま知り合ったソーシャルワーカーの女性・デブラ。彼女を通じてバットマンはゴッサムの街を蝕む悪の一つ、児童虐待のことを知る。さらに児童虐待問題を追ううち、彼は両親の死に絡む謎、そして巨大な児童売春組織を追うことになる……。

アウトロー探偵バークのシリーズで知られるヴァクスが、アメリカのヒーローを語る上で欠かせない存在・バットマンをヒーローに据えて、彼の一貫したテーマである児童虐待問題を取り上げた作品。

バークというアメコミ風の要素もあるダークなヒーローを描いてきただけあって、バットマンというもう一人のダークなヒーローを描く腕前はなかなかである。ストーリーも、シンプルながらゴッサムから東南アジアの架空の小国へと展開し、なかなか読みごたえがある。

 なお、巻末には児童虐待問題に関する短い文章と、市民団体の連絡先が掲載されている。そう、ヴァクスは本気なのだ。実際、彼の本業はこの問題を専門に扱う弁護士なのだから。

 そして、この「問題意識の過剰なまでの強さ」こそが、ヴァクスが「娯楽作家」に徹し切れない一因でもある。彼の小説には必ずといっていいほどこの問題が取り上げられ、その問題意識の強さゆえに、児童虐待問題についての記述が物語を侵蝕してしまう。まるで島田荘司が日本人論と冤罪の話をせずにはいられないように。

 簡単に言ってしまえば「説教臭い」のだ。初期の作品では、その説教臭さを物語の力で覆い隠すことができた。だが、シリーズを重ねるうち、どうしても説教臭さが鼻につくようになってくる。

 ヴァクスという作家、腕前は確かなのだから(たとえば、この人の短編はノワール風の翳りを帯びた、どこか幻想的な美しさに満ちている。短編集があればぜひ邦訳希望)、自身の問題意識をもっと洗練させた形で作品に描きこんでほしいのだが……

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バトル・ロワイアル

バトル・ロワイアル 高見広春 / 太田出版

 ホラー大賞選考の席上、林真理子が不倫称揚本の著者とは思えないような道徳心あふれるコメントとともに切り捨ててしまった作品。

 ……というより、「深作欣二が映画化します」って言ったほうがいいのかな、最近は。

 この本が書店に並んでから、もう1年以上が経つ(当初はスキャンダル性で売ろうとするかのような帯をまとっていた)。いろいろなところで非常に高く評価された。

 それと同時に、この作品の持つ重大な欠点も、絶賛の嵐の吹き荒れるなかで常に指摘されていた。

 たとえば我孫子武丸氏は、本書の舞台は「ファシズムが成功した日本」というパラレルワールドのはずなのに、登場する中学生も描かれる事象も現代日本そのままという不整合を、「物語にノセてくれない」原因として挙げている(http://web.kyoto- inet.or.jp/people/abiko/diary.htm 、2000年6月4日分)。

 確かに、そういう点が、この作品に熱狂したかもしれない人々を遠ざけているのだろう。読者が世界設定のあいまいさを意識してしまうというのは、異世界を描いた小説としては明らかにマイナスだ。

 だが、私がこの作品に「恐怖」を感じたのは、むしろこの「異世界らしくない異世界」という中途半端な背景のためだった。

 本書に描かれる全体主義は、「現代日本とまったく異なる世界での全体主義」ではない。この全体主義を支えているのは「みんなそうしているから」「誰もやめようと言わないから」という、日本人なら頻繁に遭遇するであろう意思。……そう、これは異世界の話ではない。すぐそこにある全体主義なのであり、その身近さゆえに恐怖を感じることができるのだ(たぶん、先日の選挙で自民党に投票したような人には一生縁のない恐怖感だろう)。中途半端に現代日本の風俗がそのまま描かれていることも、「身近さ」を際立たせるのに一役買っている。

 この恐怖は、たぶん偶然が生んだものだろう。だから、「選考委員のコメントはさておき、この冒険活劇は確かに『ホラー大賞』じゃないよな」というのが読んだ直後の感想だった。

 でも、「みんなそうしているから」というのが何かの動機として通用してしまう社会に住んでいると、そしてそれがますます強く感じられるようになってくると、こういう恐怖を描いた作品こそ「ホラー」だろう、という気がしてならない。

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あ・じゃ・ぱん!

上巻下巻矢作俊彦 / 新潮社

 敗戦後、米ソによって東西に分割された日本。東側の首都は東京、西側の首都は大阪と定められた。時は流れ、昭和天皇の崩御に沈む京都に一人のCNN特派員がやってきた。彼の目的は、東側最大の反体制組織のリーダー・田中角栄との会見だった……。

 吉本一族がお笑いの世界ではなく政界に君臨し、ボートピープルとしてアメリカに流れついたシゲオ・ナガシマがメジャーリーグのヒーローとなり、和田勉が東側の国営放送のスタッフとして(やっぱり駄洒落を飛ばしながら)働いているもう一つの日本が舞台。いたるところに悪趣味なパロディがあふれかえっているものの、そこには奇妙なリアリティが漂っている。そのリアリティを生んでいるのは、作者の意地悪な視線だ。

 たとえば、東側の日本に君臨する二人の政治家は……中曽根康弘と渡辺美智雄。体制がどうであれ、やっぱりこの人たちが権力を握ってしまうというのは、一見ふざけているようでいて、実はかなりありそうな話ではないだろうか(ちなみに、渡辺美智雄はやっぱり失言のせいで失脚する)。

 「日本が米ソによって分断された」という設定の小説は、仮想戦記などには珍しくない。が、そういう小説に描かれる「社会主義国・日本」のほとんどが「地名と人名を日本風にした北朝鮮」や「地名と人名を日本風にした東ドイツ」だったりする。それに比べると、本書に描かれるのはまぎれもない「もう一つの日本」である。なにしろ、両国の間に存在するのは「東西冷戦」ならぬ「東西談合」なのだ。

 その談合のなかに繰り広げられる謀略劇が本書のストーリーの根幹。徹底したパロディという枝葉が生い茂っているために見えづらいが、この謀略がかなり壮大なスケールで、下手すりゃ荒唐無稽になってしまうような素敵なシロモノ。脂の乗っていたころのロバート・ラドラム……というよりは、悪の秘密結社の悪だくみに近いのだ。でも、これがパロディまみれの本書の雰囲気にはよく似合う。

 ちなみに、何人かの小説家も史実と異なる形で登場する。東側で反体制ゲリラとして戦う三島由紀夫。「史実」より長生きしていくつかの作品を書いた小栗虫太郎。そして何より、あのアメリカの……おっと、これは言わないでおこう。多くのミステリ読者にとって、好きであれ嫌いであれかなり大きな存在であるはずの作家が、意外な運命をたどっていることが最後の最後に明らかにされる。

 散りばめられた小ネタでいちばん笑えたのが「日成のおばさん」。あまりにもバカバカしく愉快なので、どんなネタかは教えない。

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そしてぼくはママの愛人になった

そしてぼくはママの愛人になった ファビエンヌ・ベルトー / 稲松三千野 / 原書房

 なかなか強烈な題名である。原題はこんな意味ではないのだけれど。『バカなヤツらは皆殺し(原題は英訳すると”fuck me”!)』もそうだったが、このシリーズ(現代フランス小説新世代)の邦題はなかなか気が利いている。

 念のためことわっておくが、母子近親相姦ポルノではない。

 少年の12歳の誕生日、目の前でママがパパを殺した……というところから始まる、少年とその母親の物語。こう書くとなんだか重苦しい雰囲気を予感するかもしれない。

 ところが。

 どんどんろくでもない方へと転がってゆくストーリーそのものは確かに痛々しい。だが、それを綴る文体は軽妙、そしてどこか爽快感が漂う。

 というのも、この作品はひとりの少年の成長を描く物語でもあるからだ。幼くして世間のさまざまな面を見ることになった彼は、涙を流すことはまったくない。とはいえ、今日びの12歳はこんなに無邪気じゃないだろ、とツッコミたくなるような一面も見せる。そんな彼が、さまざまなできごとに遭遇しながら、少しずつ変わってゆく。その変化は、健全な社会からすれば「成長」とは呼びがたいものかもしれないが、しかし彼の世界においてはまぎれもない「成長」である。

 そう、彼の成長のかたちが世間と相容れないものであるからこそ、この小説は悲痛なのだ。

 そして、とにかく記憶に残るのは母親の人物像。『バカなヤツらは皆殺し』の少女たちもそうだったけど、世間の荒波から身を守るどころか、世間に自分をむき出しにして生きている。息子が母を守ろうとすればするほど、事態はますます悲惨な方向に転がってゆく。

 そういえば、『永遠の仔』の3人の誰かの母親にもこんなところがあったけど、『永遠の仔』の母がストーリーを進めるための「機能」に過ぎないのに対し、こちらの母はストーリーの原動力そのものだ。

 そんなわけで、テイストはどこか『バカなヤツらは皆殺し』に通じるものがある(あんなに人は死なないけど)。最近のフランスではこういうのが流行りなのだろうか。それとも訳者の趣味だろうか?

 このシリーズ、今後も目が離せない。

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愛ウラジーミル・ソローキン / 亀山郁夫訳 / 国書刊行会

 昔のロシア文学によく描かれる、帝政ロシア時代の田舎の田園風景。それが一瞬にしてスプラッタ風の殺戮劇場と化す……。長編『ロマン』で一部に衝撃を与えた現代ロシアの異端作家、ソローキンの短篇集。

 表題作は、老人が若い頃の恋愛を回顧して話しているところから始まる。が、肝心の恋愛話が始まったとたん、すべてが「………………」で覆いつくされてしまう。1ページくらい「…………」が続いたその後は、いきなりバイオレントなクライマックスが待ち受けているのだ。

……いやあ、これはすごい。言葉を使って組み立てられた爆弾、といったところか。豊饒な物語の可能性を孕んだストーリーが、いきなりねじ曲げられ、汚穢と暴力に満ちた世界へと変貌する。

 破壊衝動の描き方としては、映画にもなった『ファイト・クラブ』みたいに、登場人物の行為をどんどんエスカレートさせるという手があるが、この短編集もそれに近い。

 が、本書で破壊されるのは物語だけではない。時には物語を綴る言語そのものまで破壊されてしまう。計算したうえでキレている。

 読者の存在を意識することなく、作者の気の向くままに綴られる文章だが、その壊れ具合は実に楽しい。

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ポップコーン

ポップコーン ベン・エルトン / 上田公子訳 / 早川書房(→ミステリアス・プレス文庫

 暴力的な映画で物議をかもすブルース・デラミトリ監督がオスカーを手にした夜。美人モデルを連れて帰宅した彼を待っていたのは、彼の映画からそのまま出て来たような、逃走中の無差別殺人カップルだった。ブルースたちを人質に取った彼らは、警察とマスコミに意外な要求を突き付ける……。

 ハリウッドが舞台だが、作者はイギリス人である。デラミトリ監督のモデルは、もちろんタランティーノ。全編をおおうブラックなジョーク、そして皮肉な展開を読んでいると、確かに「アメリカ的」というよりは「イギリス的」という気がする。イギリスというと、ついつい「モンティ・パイソン」なんぞを思い浮かべてしまうせいだろうか。

 スピーディな展開につられて、すいすい読めてしまうが、実は重いテーマを扱っていたりする。

 ひとつは、映画などの創作に影響されて犯罪が起きることがあるのか、というもの。日本でも、凶悪犯罪が起きると、TVドラマの暴力描写やらホラー映画なんかをやり玉に挙げたがる人がいるけれど、それと同じだ。

 もっとも、あれは暴力犯罪を犯す人間が暴力描写を好む傾向が強いということであって、因果関係のとらえ方が逆ではないかと思うのだけれど。

 そして、もう一つのテーマが「責任」だ。「社会が悪い」「病気だから」などなど、何かしら自分以外のものに責任を転嫁したがる姿勢。ま、日本でも流行ってますね。そういう意味では、この本の結末はきわめて皮肉だ。

 が、とても真剣に受け止める気になれないような書き方をしているあたりに、この作者のイギリス的なひねくれ具合を感じる。

 なにしろ作者がこのテーマを浮かび上がらせれば浮かび上がらせるほど、「だったらおまえはどーなんだよ」と読者がツッコミたくなるような構造になっているのだから。

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ギャングスタードライブ

ギャングスタードライブ 戸梶圭太 / 幻冬舎(→幻冬舎文庫

 ダンサーくずれの女・敏子に、母の旧友・麗子が持ち込んだ依頼。それは、麗子の別れた夫のもとで暮らしている彼女の娘・理沙を誘拐することだった。押し切られるようにして依頼を請け負った敏子は、幼な馴染みでヒモ暮らしの男を相棒に、誘拐計画に臨む。しかし、彼女の別れた夫・小笠原は、暴力団の組長なのだ……。

 誘拐犯と暴力団のカーチェイス。随所にはさまれたヒネリのきいた展開。描かれる家庭像は現代的ではあるが、でもそれを深刻な面持ちで語るようなことは決してしない。どこかヘンなキャラクター同士の絡み合い(誘拐される少女と大薮春彦マニアのやくざは強烈な印象を残す)に、最後の最後まで先の読めない展開、そして変に湿っぽくならない筋運びには好感が持てる。「和製タランティーノ」というたたき文句もなかなか的を射ているのではないだろうか。私はエルモア・レナードをふと思い浮かべた。

 それはさておき、こういう小説でのストーリーのひねりは、謎解きミステリの解決部分に相当すると思う。序盤のシチュエーションからどんどん思わぬ方向に転がってゆく物語を楽しむためには、転がる方向を知らないでおくに越したことはない。

 だから、この本の帯には問題がある*1。中盤以降の展開をいろいろと書いているので、物語が思わぬ方向に転がってゆくという楽しさが減ってしまうのだ。人物紹介に徹するのならまだしも、内容に無闇に言及するべきではないだろう。

 『永遠の仔』を読んだときにも思ったのだが、幻冬舎はミステリの装丁に関する配慮がかなり欠けているような気がする。今後幻冬舎のミステリを手にとるときは、帯や表紙にはあまり目を通さないようにしなければ。

 もちろん、作品自体は非常に楽しく読むことができた。できれば、ハードカバーよりは文庫本で読みたい一冊。

*1 : 2008/01追記:ちなみにこれは単行本のときの話。文庫がどうだったかは知らない。

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