■あれから3年、である。
ローレンス・ブロックのノンシリーズ作品『砕かれた街』を読み始めた。
舞台は「あれから1年」のニューヨーク。どうやら、連続殺人と、事件に巻き込まれた人々を描く群像劇らしい。
マット・スカダーものも一時期に比べるとずいぶん緊密さに欠けるようになっている。だが、かつて『倒錯の舞踏』で「現代社会の暴力」をめぐる思索を極限まで突き詰めたブロックだ。それだけに、例のテロをどんなふうに取り扱うのかが気になる。
ローレンス・ブロックのノンシリーズ作品『砕かれた街』を読み始めた。
舞台は「あれから1年」のニューヨーク。どうやら、連続殺人と、事件に巻き込まれた人々を描く群像劇らしい。
マット・スカダーものも一時期に比べるとずいぶん緊密さに欠けるようになっている。だが、かつて『倒錯の舞踏』で「現代社会の暴力」をめぐる思索を極限まで突き詰めたブロックだ。それだけに、例のテロをどんなふうに取り扱うのかが気になる。
引っ越しを前に、本の整頓に追われる日々。ふと本屋で見かけたこんな題名の本が気になってしまった。なにしろ「書棚の悩み」である。他人事とは思えない。
読者としての本とのつきあい方に関する14のエッセイを収めた本である。ちなみに著者は作家で、結婚相手も作家。最初のエッセイでは、ふたりの蔵書を一つにまとめようとしたときのエピソードが語られる。てきとーな夫と緻密な妻が、おのおのの整理法をすり合わせながら蔵書を統合するという難業に立ち向かう、うるわしい物語である。
本を、読者の人生の断片を形成するものとしてとらえ、書棚をその人の内面がうかがえる場所としてとらえている。明言こそしていないものの、「どんな本を持っているか教えてくれたまえ。君がどんな人物か当ててみせよう」と言わんばかりだ。本を読み、しかも読み終えた本を手元に置きたがる人ならば、共感できるところも多いだろう。
本を整頓中の身として印象深かったのは、著者が古本屋で買った『本とその収納』という本の話。この本を書いたのはウィリアム・E・グラッドストン、19世紀のイギリスで何度も首相を務めた政治家である。政治と同じくらいに本にも情熱を注いだ人で、
心から本を愛するものは、命ある限り本を家へおさめる作業を人まかせにはしないだろう。
なんて言葉を遺している。かくしてここでは、グラッドストンが(大英帝国を維持するのと同じようにして)大量の蔵書を管理していた様子が語られる。あいにく、すぐに実行するのは難しいのだが……。ちなみに、可動式の書棚を考案したのはこの人であるらしい。
……そんなわけで非常に楽しく読んだのだけど、どうしよう、また一冊増えちゃったよ。かくして「書棚の悩み」が尽きる日は決してくることがない。
野心あふれる若手美術評論家フィゲラスは、ある画家の取材をするチャンスを与えられた。ジャック・ドゥビエリュー。現代美術史の最重要人物でありながら、作品は火災で失われ、その後は沈黙を守っている幻の画家。彼に会うだけでも、フィゲラスの評論家としてのキャリアに大きな得点になる。だが、うまい話には落とし穴がつきもの。取材には、ある条件が付けられていたのだ……
全編フィゲラスの一人称。自意識過剰で嫌味にあふれた語り口が実に「おじょーひん」で、小説の語り手としては非常にすばらしい(身近にいたら不快だが)。この口調で延々と日常生活を語って、そのまま終わっても一向に差し支えないくらいだ(隣にいたら殴るけど)。
そしてもちろん、画家ドゥビエリューを忘れちゃいけない。その作品を鑑賞する機会が失われてしまったが故に美術史上きわめて重要な存在になったという、まるでチェスタトンが繰り出す逆説のような経歴の持ち主である。その言動にもシュールレアリストらしさが漂い、フィゲラスを翻弄する場面での悠然とした態度が印象に残る。
最後の最後まで、先の読めない展開に翻弄される小説だ。翻弄されるのがこの本を楽しむうえでの大事なところなので、展開については触れないでおこう。
ところでこの小説、ある種の批評としても楽しめる。もちろんドゥビエリューは架空の人物なので、レムの『完全な真空』や『虚数』、あるいはボルヘス&ビオイ・カサーレスの『ブストス・ドメックのクロニクル』(いま気づいたがどれも国書刊行会の本だ)のような、「架空の対象に対する批評」という趣向だ。
存在しない作品の批評。それはフィゲラスの口からも語られるけれど、フィゲラスの思惑を抜きにした物語の全体像が、ひとつのシュールレアリスム論になっているように見える。
また、この小説に描かれる、評者とその対象の関係も興味深く、いろいろと考えさせられるところがあった。
たとえば、印象深かったのはこんな台詞だ。
じゃ何がわかってるのかというと、ドゥビエリューがアメリカで描いた絵を見る最初の批評家になろうと俺が決意したこと、〈アメリカ期〉という呼称もすでに決めていること、ただそれだけだ! (p.109-110)
まだ何も見ていないというのに、すでに呼称まで決めている。フィゲラスの批評の枠組みにドゥビエリューをどう位置づけるのかも、すでに決まっているのだろう。もちろん、純粋に客観的になれる人間なんていないのだから、多かれ少なかれフィゲラスみたいな傾向は生じるのだけれど……。
鉄の怪物が跋扈する異様な世界に紛れ込んでしまった戦士が、黒い剣を武器に大暴れする本格ミステリである。
フランスの古城を移築して作られたテーマパーク。その社長が、750年前に死んだ城主の霊に取り憑かれてしまった……? 「私を殺した犯人をつきとめてくれ」社長の依頼を受けてやってきた石動戯作とアントニオ。だが、事件の子細もその容疑者も、すべては社長の頭の中。かくして石動は、重役や従業員らの手を借りて、現場だった古城の中で、当時の状況を再現することに……
……というお話。そんなわけで、冒頭に書いたことは嘘ではない。
城主の霊に憑かれたという社長は、途中でテーマパークを抜け出して、トキオーンの都にあるロポンギルズ(なんのことかわかりますよね)目指して旅に出るのだ。750年前のフランス人(外見は日本人だが)を現代の都市に野放しにするとろくなことにならない。この社長も、ドン・キホーテばりの騒動を巻き起こす。
750年前の殺人の謎解きは、往年の島田荘司みたいな仕掛けもあってそれなりに楽しいが、やや小粒という印象はぬぐえない(空回りしちゃった時の島田荘司のようなものか)。やはりこれは「社長大暴れ之巻」として楽しむものじゃないかと思う。
そういえば、前半にこんな台詞があった。
歴史ミステリもちゃんと読まなくちゃだめだ。『ビロードの悪魔』は傑作だよ……(本書p.144)
国産本格ミステリにしばしば登場するカー崇拝者の発言である。
『ビロードの悪魔』はディクスン・カーの隠れた傑作(といろんな人が言うので、今やあまり「隠れた」とは言えないかもしれない)。二〇世紀に暮らす主人公が、悪魔と契約して過去の世界に旅立ち、冒険を繰り広げる物語だ。
で、本書はその裏返し。過去の時代の人間が、亡霊として「現代」を体験するのだ。過去の人間が現代にやってきて右往左往、という物語は珍しくないけれど、現代日本の描写に仕込まれた細かいネタのおかげで、愉快なバカ騒ぎに仕上がっている。
ちなみに、登場人物のほぼ全員が、マイクル・ムアコックの〈エルリック・サーガ〉をもとに命名されている(『黒い仏』とは趣向が違うので、書いてしまっても大丈夫だろう)。江里陸夫=エルリック、西森ルミ=サイモリル……といったところはわかりやすいが、若林蘭三=ジャグリーン・ラーンとか、大海永久=ディヴィム・トヴァーなんてのは感動に近いものを覚えてしまう。
混沌の神アリオッチまで出てくるのには笑ってしまった。とはいえ世界が混沌に飲み込まれたりストームブリンガーが飛んでいったりはしないのでご心配なく。
ちょっぴりいかがわしいけど、このワクワク感が懐かしい。
プロローグや、土星の衛星で妙なものが発見されるあたりは『星を継ぐもの』を、地球の外に理想郷を築いたクロニア人の描写は『断絶への航海』を連想させる。
トンデモ理論を下敷きにした大風呂敷の広げっぷりが楽しい。登場人物が討論を重ねる『星を継ぐもの』に比べると、可能性をほのめかすだけのことが多いので、論証の説得力ではやや劣るのだけれど。
同じくトンデモ話を扱った山本弘『神は沈黙せず』を読んだときに物足りなかったのが、作中で広げられる大風呂敷が、主人公たちの物語と微妙に噛み合っていなかったところだ。でも、この作品は大丈夫。あやしげな宇宙論から導かれるのは、地球規模の大災害だ。
かくして大風呂敷を広げる上巻に続く下巻は、災害パニック小説と化す。サービス精神あふれる娯楽作品だ。
三部作の第一部という本書はほんとうに序章のような感じ。続く2作で、このビリヤード台みたいな太陽系に何を巻き起こすのか楽しみだ。
高額の報酬で盗みをはたらくニック・ヴェルヴェット。彼が引き受けるのは、価値のなさそうなものの盗みだけ。裏社会のニッチ市場を押さえる彼に、好敵手が現れた。サンドラ・パリス。「白の女王」とも呼ばれる、元女優の美女だ。
ある時は手ごわい敵として、ある時は心強い味方として、ニックとサンドラが奇妙なターゲットに立ち向かう10編を収めた短編集。
かつてポケミスで刊行されていた『怪盗ニック登場』『怪盗ニックを盗め』『怪盗ニックの事件簿』が、しゃれた表紙をまとって文庫化された。そんなわけで、これは4冊目の作品集だ。文庫オリジナルで、アメリカでも2004年に発表されたばかりの新作も収められている。
このシリーズのおもしろさは、「ニックがいかにして目的の品を手にいれるか」と、「なぜ依頼人はその品を盗みたがるのか」という二つの謎の絡み合いにある。
そんな二つの糸に、「サンドラの盗みの手口」というもう一つの糸が加わるのがこの作品集。ニックとサンドラが最初から協力している作品もあるけれど、やはりそれぞれが独自の力でターゲットに向かって行く作品が内容も凝っていて楽しめる。
本書に限らず、ホックの作品は「ミステリをあまり読まない人」に「いかにも推理小説な作品」をお勧めする時に適してるんじゃないかと思う。どぎつさ控えめのスタンダードな謎解きで、ミステリ屋さんの小粋な職人芸を堪能できる。
サンドラ・パリス登場。カジノを舞台にした盗みを巡って、二人の怪盗が火花を散らす。
犯行声明代わりに「白の女王 不可能を朝食前に」という名刺を残す、サンドラのスタイルが微笑ましい。
ニックの受けた依頼は、図書館にあるハメットの『影なき男』を盗むこと。いっぽう、サンドラが依頼人を誘拐しようとしていることを知ったニックは、彼に警告するが……
いつもながらのニックもののエピソードに、サンドラの活動がさらなる謎を加える。「サンドラ効果」が発揮された一編。
ターゲットを狙って豪邸に忍び込んだニックは、殺人事件の容疑者に。苦しい立ち場のニックに、サンドラが救いの手を差し伸べる。
ニックは「型どおりの仕事だ」と言うけれど、その「型どおりの仕事」に凝らされたさまざまな工夫こそが、このシリーズの魅力なのだ。
それにしてもこの作品のサンドラ、やることが派手である。彼女には、ものごとを劇的に演出したがる癖があるようだ。
カリブ海に浮かぶ小国の大使館。そこに掲げられる古びた国旗がターゲット。だが、サンドラも同じ国旗を狙っていた……。
サンドラとの競争がもたらす緊張感が心地よい。依頼人の動機は馬鹿馬鹿しいけれど、小国の苦渋を感じさせる。
ホックが生んだ別のシリーズ主人公、レオポルド警部が登場する。
一夜のうちに起こった、絵画盗難と殺人事件。窮地に立たされたサンドラを助けるため、ニックはレオポルドにある勝負を持ちかける。
「紙細工の城を盗め」のニックとサンドラの立場を逆転させた作品。レオポルドに勝負を挑むというニックの振る舞いは、サンドラとは違った意味で派手だけど、そのための手段はやっぱり短編ミステリの主人公ならでは。
ターゲットの持ち主、禿げた男が住むのは南部の丘陵地帯。酒を密造しているようで、警戒心が強く、来客を銃で追い払うことも少なくない。
禿げた男の櫛というターゲットは、このシリーズならではのもの。もっとも、これはニックの物語としてはやや異色。実利的な動機に基づく依頼が多いこのシリーズには珍しく、情緒が勝っているのだ。
全般に、ジョー・R・ランズデール作品のような雰囲気も漂う。幕切れが印象深い。
舞台はモロッコ。サンドラが付け狙うのは、ある蛇使いの持つコブラの入った籠。
仕掛けはいたってシンプルで、エキゾチックな肉付けが楽しい。背景はずいぶん生々しいけれど、それを生々しく感じさせないのがホックの作風だ。
武器を積んだ飛行機を盗もうとするサンドラの物語と、ケーキのロウソクを盗もうとするニックの物語が、意外な形で交錯する……のはいいんだけど、ちょっと接続の仕方が強引。ニックの物語は「いつもどおり」なんだけど……。
テキサスにある牧場。その家の浴室から体重計を盗み出す、という依頼。ただしそこは野生動物飼育所で、牧場にはベンガル虎が放し飼いにされているのだ……。
『馬鹿★テキサス』ならぬ「虎★テキサス」。サンドラも登場するけれど、雰囲気はいつものニックものに近い。
オーデュボンの鳥類図鑑の実物大複製画。250ドル程度のこの絵を巡って、ニックとサンドラがしのぎを削る。
サンドラの台詞からも推測できるように、こういう依頼の仕方って、すさまじく当てが外れる危険があるような……
……だったけれど、葬儀に参列したり原稿を書いたりと、用事に追われるうちに過ぎていった。
もっとも、その合間にはこんなゲームで遊んでいたりするのだが。
かれこれ10年くらい前のゲームを、今時のグラフィックでリメイクしたもの。もっとも、射撃の爽快感を重視していた旧作に比べ、こちらは暗闇を活かした緊張感の演出が主体(そんなわけで、グラフィックに凝っているわりに画面はたいてい真っ暗だ)。
「合間」と書いてみたものの、実際は恐怖と緊張で疲れてしまうので一日30分程度しかやっていない。
……なんてことを書いてないでさっさと原稿まとめよう。
「マフィアが自作自演TVドラマ 子分ら総出演 ロシア」
http://www.asahi.com/international/update/0801/002.html
ロシア・マフィアの一味が、自分たちでギャング映画を撮ったという話。
といったエピソードが実に味わい深い。
フィクションの中の出来事が現実に起きることがたまにあるけれど、まさか小林信彦の『唐獅子株式会社』ISBN:4101158010が現実になるとは思わなかった。
夜は江東区花火大会に。暑い日が続いていたけれど適度に涼しく、しかも川岸で間近に花火を眺めて大いに楽しんだことでした。