地底獣国の殺人

ISBN:4062731916芦辺拓/講談社文庫 (解説)

 芦辺拓氏は、先行する作品への敬意を自作での継承という形で表現することが多い。昨年(二〇〇〇年)刊行された氏の三冊の著書はその好例だ。『名探偵博覧会 真説ルパン対ホームズ』(原書房)はパスティーシュ短編集。そして、『怪人対名探偵』(講談社ノベルス)では乱歩の通俗スリラーの魅力に、『和時計の館の殺人』(カッパ・ノベルス)では横溝正史の世界に挑んでいる。

 そして、一九九七年に講談社ノベルスから発表された本書『地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人』では、往年の秘境冒険小説にオマージュを捧げている。

 秘境冒険小説とはどのようなものか、本書と関わりの深い作品から、いくつか例を見てみよう。

 まずは、本書のタイトルに織り込まれている作品から。コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫ほか)は、南米奥地に赴いた探検隊が今なお生き残る恐竜に遭遇する、このジャンルの古典とも言うべき作品だ。そして、久生十蘭「地底獣国」(ちくま文庫『怪奇探偵小説傑作選3 久生十蘭集』に収録)では、一九三〇年代のソ連の国家戦略を背景に、極東に広がる地底世界に足を踏み入れた探検隊の運命が描かれる。

 また、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』(創元SF文庫ほか)は、錬金術師の残した古文書の暗号を解き明かして火山口の下の世界へと旅する物語。本書のアララト山の設定にも影響しているようだ。登場人物の名前からは、小栗虫太郎『人外魔境』(角川ホラー文庫)や、香山滋が描く探検家・人見十吉のシリーズ(出版芸術社『月ぞ悪魔』などに収録)も視野に入っていることがうかがえる(本書の折竹十三がしばしば間違えられる「高名な探検家」について知りたい方は、『人外魔境』をお読みいただきたい)。

 これらの作品に描かれるのは、空想によって組み立てられた異世界だ。ただしそれは、現実の世界のどこかに存在することになっている。現実に存在するかのように描かれた、しかしどこにも存在しない土地。それが、秘境冒険小説に描かれる異世界なのだ。

 この異世界は、外側の世界に蹂躪されかねない危うさを抱えている。そもそも、ほとんどの秘境冒険小説は、外部から異世界へ侵入する者の物語である。時には、侵入者たちの背後にある無粋な思惑とも無関係ではいられない。

 例えば「地底獣国」がそうだ。探検隊が地底世界に降りてゆく目的は、地下洞窟の軍事利用を企むソ連の国家戦略をふまえたものである。また『人外魔境』の一編「地軸二万哩《カラ・ジルナガン》」の冒頭では、イギリスとソ連の勢力が拮抗するアフガニスタンの一角に、ナチス・ドイツが探検隊を送り込む計画が発表される。

 これらの作品は、神秘に満ちた世界を描きながら、一九三〇年代当時のきな臭い現実をしっかりと物語の中に取り込んでいる。そして、現実を空想の面白さに奉仕させてしまうような強さを備えている。

 そのような姿勢は芦辺氏の作品にも共通している。現実離れした物語であるからこそ、それが成り立つような世界を構築する手続きを怠っていない。『殺人喜劇の13人』(講談社文庫)のあとがきで、氏は「犯人がトリックを用い、探偵によって謎解きがなされるという筋立てがリアリティをもって成立する世界を作りあげること」が「本格というスタイルを現代に復活させるために不可欠な作業」だったと述べている。そして、自身の作品や他の作家の作品から例を挙げている。

 本書も同じだ。恐竜が闊歩し、伝説上の動物が息づく世界を二〇世紀の地球に置くために、まずは背景としての一九三〇年代が描かれる。

 国内では、国体に反する思想が弾圧され、日本を世界の中心に位置づける怪しげな歴史観がさかんに語られた時代(青森県でキリストの墓が「発見」されたのもこの時代のことだ)。国外では、ナチス・ドイツが徐々に牙を剥きだし、日本と中国がいよいよ戦争に突入しようとする時代。本書に描かれるトルコでも、トルコ共和国の民族主義が、国内や近隣諸国の他民族との間で摩擦を起こしていた(探検隊が滞在する国境の町ドゥバヤジットも、実は少数民族のクルド人が人口の多数を占めている)。

 ただし、このような史実をふまえて描かれるのは現実の一九三〇年代そのものではない。丁寧な取材から得られた事実をもとに構築された、いわば冒険活劇空間としての一九三〇年代である(そういえば、本書のエピローグには冒険活劇空間ならではのゲストが姿を見せている)。

 主な舞台であるアララト山は、トルコ、イラン、ソ連(当時。現在はアルメニア)の三国が国境を接する地帯に位置する。そのため、アララト山の入山には制限がつきまとう(これは現在も同じ)。政治的な理由で生じた空白地帯だ。すぐ外側には各国の思惑が渦巻くこの空白は、冒険活劇の舞台にはうってつけの場所である。

 ここに作られた秘境では、芦辺氏の想像力が自由にはばたいている。基本は古生物学の成果を参考にしているが、その枠に納まらないお遊びも見られる。とはいえ、空想が無軌道に繰り広げられるわけではない。この世界の事物は、律義なまでに本格ミステリのルールに従っているのだ。本書のトリックに触れるので詳しくは述べないが、すでに読み終えられた方は、ある生物の習性に関する記述を思い出していただきたい。

 ところで、《ノアの方舟探検隊》の物語には外側の層が存在する。シリーズ探偵・森江春策が、祖父の過去を調べている途中で謎の老人に出会い、《ノアの方舟探検隊》の物語を聴く--という部分である。この小説は、「祖父の事跡を探る森江春策の物語」の中に、老人が語る「《ノアの方舟探検隊》の物語」が含まれるという二重構造になっているのだ。

 本書での森江春策は、もっぱら物語の聞き手として登場する。秘境の物語の合間に現れて、驚いてみせたり、疑いを抱いたり、時には語り手の老人に反駁しながら、徐々に物語に引き込まれてゆく。

 このような、物語とその受け手の姿が交互に描かれる構成は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)を連想させる。

 有名な作品だが、本書と重なる部分について紹介しておこう。主人公はバスチアンという少年。彼は本屋から「はてしない物語」と題された本を持ち出して、学校の倉庫で読みふける。その本の内容は、ファンタージエンという異世界が危機に襲われる物語だ。エンデの『はてしない物語』の読者は、本に熱中するバスチアン少年の姿だけでなく、彼が読んでいる物語をも読むことになる。つまり、森江春策にとっての秘境探検物語は、バスチアンにとってのファンタージエンの物語と似たような位置にある。

 『はてしない物語』の前半のクライマックスでは、バスチアンが物語の中の世界に入ってゆく。人間界からファンタージエンにやってきて、女王に新しい名前を与えることでこの世界を救う者。それが自分だと知ったバスチアンは、頭にひらめいた女王の新しい名前を口にして、文字どおりファンタージエンの中へと飛び込んで、この異世界を作り変えてゆく。

 同じような図式が本書でも見られる。秘境冒険物語であると同時に本格ミステリでもある本書のクライマックスは、もちろん探検隊の一行を襲った惨劇の秘密が解き明かされる場面だ。探偵・森江春策は、自身の推理を語ることによって老人が語る物語に踏み込んでゆく。そして、それまでの物語を解体し、組み変えてしまう。

 バスチアンがファンタージエンへ飛び込むことと、森江が自身の推理を語ることとでは、それぞれの作品における位置付けが異なる。ただしこの瞬間、バスチアンも森江も、入れ子になった物語の向こう側に足を踏み入れているという意味では同じ立場にいる。

 もちろん、ファンタジー小説の登場人物であるバスチアンとは違って、森江は何も時間と空間を超えるわけではない。実際、作中の森江の行動といえば、老人に向かって自らの推理を語っているだけである。

 にも関わらず、彼は確かに祖父が登場する物語の中にいる。それは、ミステリ的な叙述トリックによるものではない。技巧的だがストレートな語りだけで、現代の森江春策と三〇年代の探検隊の一行が同じ場面に立つのだ。その瞬間、二重構造の物語が一つに融合し、最大の見せ場はさらにスリリングなものになっている。

 このような仕掛けからは、芦辺氏が「何を語るか」だけでなく、「どのように語るか」ということにも非常に気を配っていることがうかがえる。

 その芦辺氏の中にはどうやら「子ども」が潜んでいるらしく、いくつかの作品に痕跡をとどめている。たとえば、氏のパスティーシュ短編ではしばしば複数の名探偵が共演している。これは、「あのヒーローとこのヒーローはどっちが強いのか」「もしもこのヒーローたちが共演したら」という子どもならではの思いつきを、自らのペンで実現させたものではないだろうか? あるいは、『不思議の国のアリバイ』(青樹社)に見られる特撮映画への愛着にも子どもの顔がのぞく。そして何より、本書である。「恐竜が闊歩する世界での謎解き」という、一歩間違えば荒唐無稽になりかねない思いつきを、一冊の小説にまで膨らませるのは、子どもの奔放な想像力のなせる業だろう。

 ただし、氏の作品世界は決して「子どもの夢」だけで成り立っているわけではない。「子どもの夢」にしっかりした土台を持たせているのは、綿密な取材と精緻な考証という「大人の仕事」である。

 それは、現実との距離を念頭においたバランス感覚とも言える。「子どもの夢」を完全に切り捨ててしまったら、新聞の社会面と変わらないような味気ないミステリになってしまうだろう。また、「子どもの夢」が何かの免罪符であるかのように、現実との距離を見失ったまま独りよがりの夢想を語ったところで、新史学のような妄想の張子ができるだけだろう(まあ、トンデモ本としては魅力的かもしれないが……)。

 前述の『はてしない物語』の後半には、ファンタージエンで現実を見失い、もとの世界に戻れなくなったバスチアンの姿が描かれる。いくつもの苦難を乗り越えて、少年はひとまわり成長して現実世界に帰ってくる。そんなバスチアンに、彼が「はてしない物語」を持ち出した本屋の主人は言う。

「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」

芦辺氏のような書き手がどのタイプに属するかは、あらためて言うまでもないだろう。

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彼岸の奴隷

ISBN:4048732951小川勝己 / 角川書店 (→角川文庫

セックス、バイオレンス&カニバリズム。これはそういう作品だ。

登場人物のほとんどが、どこか壊れてブレーキが効かなくなっている。まっとうなキャラクターと思えた刑事が実はかなりの食わせ者で、暴力衝動の塊みたいな悪徳刑事が意外とまっとうな思考回路を持っていたりするのは序の口だ(とはいえ、やっぱりまっとうな人間ではない)。内面も含めて、題名どおり彼岸の世界に行ってしまった人間が登場人物の大半を占めている。

いきなり強烈な印象を残すのは、暴力団幹部の八木澤。嬉々として残虐行為に精を出し、言うとおりにならなかった女の手足を切り落としてその肉を食べるにいたっては、まさしく彼岸の人である。……ただし、もっと歪んだ印象を残す登場人物は他にもいる。激烈な異常行為を表に出さないだけのこと。

帯には、馳星周の「すべてが歪んだ物語の先に見えるものは--もちろん現実だ」という言葉が踊っている。でも、前述の八木澤をはじめ、極端にカリカチュアライズされた人々が入り乱れる物語のどこがリアルなのか?

 それは、おそらく作者が妙な自制をしていないところにあるのだと思う。タブーを踏み越えてでも、書こうとしたことを書いている。そのスタンスは、ジャンルこそ異なるけれど、スプラッタパンクに通じるものがある。

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地下室の箱

ISBN:4594031463ジャック・ケッチャム / 扶桑社ミステリー

 「私は、この本から生きる勇気をもらいました」なんて帯のついてる本はなんとなく嫌いだ。「全米を感動の渦に」とか「癒し」とかも同様。どこかうさんくささを感じてしまう。
 そんなの読むくらいならやっぱりケッチャムでしょう。……と思って手にとったのがこの本。

 妻子ある男と関係を持ち、妊娠したサラは、お腹の子を中絶するために産科の医師をたずねる。しかしその途上、彼女は謎の男女に捕われて、地下室に監禁されてしまったのだ。男女の目的は何か? 虐待を受けるサラの運命は……? という内容である。

 拉致/監禁/虐待。そう、これはまぎれもなく天下の鬼畜本『隣の家の少女』と同系の作品だ。あの作品の後味の悪さは半端じゃなかった。でも、この本は違う。逆境の中で、人格崩壊を起こしかけながらも力強さを見せるヒロインの姿は前向きだ。
 読後感も実にポジティヴな鬼畜小説である。私は、この本から生きる勇気をもらいました。……うーん、まずい徴候だなあ。

 ちなみに、サラを監禁する男が抱くいびつな信仰心もさることながら、男がサラに語る『組織』をめぐる陰謀めいた話も、一部のアメリカ人が抱くオブセッションを象徴しているかのようだ。この『組織』をめぐる物語がサラを内面から束縛してしまうという展開は、理不尽な世界になんらかの解釈を与えてくれる「物語」というものの危険な魅力を表している。

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撃て、そして叫べ

ISBN:4062731517ダグラス・E・ウィンター / 講談社文庫

主人公は銃器の密売人。大きな取引のためにワシントンDCへ向かった彼を待ち受けていたのは、裏切りと策謀、そして銃撃の嵐。ひょんなことから行動を共にすることになった相棒と一緒に、彼を陥れた奴らに復讐するのだ……

予断を許さない、しかし落ち着くべきところに落ち着くストーリー展開に、シニカルな語り口。簡潔にして深みのある人物描写。悪党ながらも、どこか古典的なヒーローを思わせる主人公。派手な銃撃シーンが次から次へと繰り広げられる、ストレートな犯罪小説だ。

銃撃描写の根底には、「銃のあるアメリカ」が抱える闇が潜んでいる。終盤近く、主人公が突き止めた策謀の背景を見るがいい。そこにあるのは、「政府の奴らが何かを企んでいる」と語る陰謀マニアが夢見るような、ゆがんだ執念だ。

ちなみに、作者はスティーヴン・キングの評論なども書いているホラー評論家。『死霊たちの宴』などのアンソロジーにも、スプラッタ色の濃いの短編を寄せている。80~90年代に栄えた、スプラッタパンク派の一人といえるかもしれない。

従来のホラーと違い、スプラッタ映画からの影響を受けてフィジカルな暴力に焦点を当てたのがスプラッタパンクだ。実際、スプラッタパンクに分類されるホラーの多くは、超自然的な描写を取り去ってしまえば、ノワールとして読むことも不可能ではない。最近、スプラッタパンクに属するとされた作家たちが次々と犯罪小説を発表しているが、それは決して意外なことではないのだ。

……と、これは読み終えた頃の感想。
最近、あるメーリングリストで、原書を読んだ方々が、邦訳との違いを指摘していた。

  • 原文では、会話文に“ ”を使わず、地の文と同じようになっている
  • 原文はすべて現在形

一般的な形で訳したほうが読みやすいだろうという配慮かもしれない。でも、こういう特殊な形式はなるべく再現して訳してほしかったなあ。同じく会話に“ ”を使っていないという「終わりのないブルーズ」では、邦訳でもカギカッコを使っていなかったことだし。

(2002/3/27追記)

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そして粛清の扉を

そして粛清の扉を 黒武洋 / 新潮社

 柳の下でドジョウを探すのを商売の基本とすることのよしあしはさておき、その実例は珍しくない。この本もそんな一冊だ。柳の名前は『バトル・ロワイアル』。

 新潮社の第1回のホラー・サスペンス大賞受賞作である。この受賞は角川のホラー大賞との差別化狙いだとか、内容が内容だけに、少年犯罪の犯人を実名報道しちゃう新潮社ならではだとか、いろいろ下司のかんぐりができる作品でもある。

 娘の死をきっかけに、良心の最後の一線が切れてしまった女性教師が、銃や爆薬で武装して生徒を人質に立てこもる。警察が包囲する中で、生徒を次々と血祭りにあげ、やがてマスコミを使ってある要求を出す……という悪趣味な話だ。

 悪趣味ぶりが最も露骨に出ているのは、生徒の描かれ方。この小説に登場する高校生たちの立場は、極言すればヒロインの教師に「駆除」される「害虫の群れ」でしかない。ひとりひとりの個性がそれなりに描かれていた『バトル・ロワイアル』と比べれば、その違いは明白だ。

 ちなみに、傷をつつけばきりがない作品でもある。特に困ってしまったのは文章。私は「下手な文章」に対してはかなり鈍感ないし寛容だと思うのだが、さすがにこの作品の不可解な表現の数々には戸惑った。せめて次作以降は、もうすこし文章をどうにかしてほしいものである。

 とはいえ、そういうマイナスを補って余りある楽しさがあるのもまた事実。うかつに寝る前に読み始めると、確実に睡眠時間を削ってしまうだろう。今年のベスト級かもしれない(と、2月に言うのはいかがなものか)。こういうものを楽しく読んでいる自分に気づいたとたん、ふと後ろめたさを感じてしまう。そういう感情を起こさせた上で、なおかつ読ませてしまうのはたいしたもの。

 ちなみに、こんな作品がお気に召した方には、ベン・エルトン『ポップコーン』(ミステリアス・プレス文庫)もおすすめ。

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X雨

X雨 沙藤一樹 / 角川ホラー文庫

 少年たちのX-lay / X-Rain。

 ある晴れた朝、小学生の「私」の前に現れた少年は、なぜかレインコートを着ていた。右目が潰れたその少年は、自分には感じられるという「X雨」のことを「私」に語るのだった。

 たくらみに満ちた物語である。

 ダーク・ファンタジー調の前半、主役は4人の小学生。彼/彼女たち4人だけが、なぜかX雨を感知できるようになってしまった。最初は雨音が聞こえるだけ、しかしやがて雨は目に見え、実際に体をぬらすようになる。だから、たとえ他人から奇異のまなざしを向けられても、彼らはコートを着て傘をさす。そして、彼らは雨以外のものも感知するようになるのだが……。

 4人の関係には微妙なエロティシズムが漂い、世間から孤立する彼らの人間関係は次第に凄惨さを増してくる。いささか陳腐な小道具も出てくるが、しかし甘く見てはいけない。それらは陳腐であることを考慮した上で配置されている。

 中盤の悪夢のようなねじれを経て、後半では前半のファンタジーがじわじわと変容する。その手法はさながら謎解きミステリ。謎解きの手法が前面に出すぎていて、構成にはややぎくしゃくしたところがあるけれど、そのよじれ具合がこの物語にはマッチしている。

 なお、あとがきは決して先に読んではならない。

 読後、あわてて前作『プルトニウムと半月』も読んだ次第。いやはや、こんな作家を見逃していたとは。

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the TWELVE FORCES

~海と大地をてなずけた偉大なる俺たちの優雅な暮らしぶりに嫉妬しろ!~

the TWELVE FORCES戸梶圭太 / 角川書店

 アメリカのエンターテイメント作家が書く小説は、しばしばジェットコースターにたとえられる。息もつかせぬ勢いでめまぐるしく展開する物語は、確かにジェットコースターを思わせる。

 この『the TWELVEW FORCES 海と大地を(以下略)』も、そんなジェットコースターの影響がうかがえる作品だ。もっとも、作品のスタイルは、ジェットコースターとはかけ離れているけれど。

 ジャングルで発見された謎の物体。世界的な大富豪ランドルフは、それが古代人の作った二酸化炭素除去装置かもしれない、ということを知る。かくして、その正体を探るために世界各地から学者、傭兵、冒険家がスカウトされ、あげくのはてには芸術家までもが招かれる。二酸化炭素除去装置で、この地球を救うために……。

 とまあ、こんなあらすじを書いてもあまり意味のない話である。

 主役はランドルフ、そして彼の集めたヘンな連中。ストーリーの展開そのものよりも、ひとつひとつの場面で、彼らがいかにヘンな活躍をするか、に力が注がれている。

 この作品を楽しむには、登場人物に強く感情移入しながら読むよりは、観客として眺めているほうがいい。

 章は細かく分かれているので、いっぺん読み終えてしまえば、実は適当なところからでもそれなりに楽しく読める。一気呵成に読ませるところに意義があるジェットコースタータイプとは趣をことにする作品なのだ。

 没入するよりも、眺めるタイプ。

 線としての流れよりも、点としての個々の場面。

 そう、これはジェットコースターではなく、言うなれば「読む花火大会」なのだ。

 しかもいささかやけくそ気味の花火大会である。 最後には派手な大玉を打ち上げてくれる。構成そのものは破綻気味の作品ではあるけれど、もともと「流れ」に整合性を持たせることなんかあまり意識していなかったに違いない。

 読んだら感動するとか考え方が変わるとか、そんなことは決してないだろう。

 変な付加価値をつけずに、純粋に娯楽に徹して見せた作品だ。

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ストレート・レザー

切り裂く刃はリンクを夢見る

ストレート・レザー ハロルド・ジェフィ / 今村楯夫訳 / 新潮社

 この短編集の題名から連想したのは、イギリスのヘヴィ・メタル・バンド、ジューダス・プリーストのアルバムだ。’80年の「ブリティッシュ・スティール」のジャケットには、剃刀の刃が描かれていた。中身は、いささか過激な歌詞と、装飾をほとんど削ぎ落とした楽曲。その特徴は、『ストレート・レザー』の題材と文体にもあてはまる。

 作者が好んで歌う題材は、暴力と性的逸脱だ。

 暴力は社会秩序の侵犯であり、同性愛や服装倒錯は性差にまつわる規範からの逸脱である。つまるところ、どちらも「秩序の混乱」なのだ。

 二つの要素はしばしば連動している。だから、この短編集での暴力行為はある構図をとることが多い。それは性的秩序を維持する側と、そこから逸脱する側との衝突だ。例えば、表題作に登場する死刑執行人と若者の関係がそうだ。「シリーズ/シリアル」の男嫌いの女殺人者と、被害者の男たちの関係も同じである。

 暴力を「社会秩序の維持」の名のもとに否定するのはたやすい。だが、個人的な嗜好である性的逸脱はどうか? この二つが絡み合い、しかも人種差別/性差別といった既成秩序の負の面が描かれることによって、「秩序維持=正義」という図式は切り裂かれてゆく。

 もっとも、このような題材の選択と視点は、すでに多くのミステリーやホラーに見られる(どちらも、社会秩序、あるいは日常的な秩序の混乱を好んで描くジャンルだ)。

 むしろ注目すべきは、その表現方法だ。

 作者が奏でる文章に目立つのは──省略/欠落/装飾の排除。

 個々の短編はいたって短い。文章は切り詰められている。会話だけで地の文がない短編もある。作者が創り出した架空のスポーツやテーマパークの名前が、何の説明もなく飛び出す。省略という点で特徴的なのは「透明人間」の文体だ。原文の一部はあとがきに載っている。何でもかんでも切り詰めてしまうそのスタイルは、英語圏のWebページで見かける略語とジャーゴンまみれの文体を思わせる。

 Web的なスタイルといえば、本書の短編は、それぞれの要素によって互いにリンクしている。例えば表題作と「シリーズ/シリアル」は、「剃刀で男の下半身をいためつける二人組」という要素でつながっている。「ネクロ」と「迷彩服とヤクとビデオテープ」を結ぶのは、白人の不良警官だ。

 極端な短さ、そして短編どうしのリンク。そう、これは印刷物として読む(read)よりも、Webの上で眺める(browse)のに適したスタイルの小説だ(1ページに長い文章が鎮座ましますWebサイトにうんざりしたことはないだろうか?)。題名こそ切断をイメージさせる短編集だが、その文章はリンクを──つながりを志向している。

 最近、スティーヴン・キングが「ライディング・ザ・ブレット」をインターネットで配信した。配信形態こそ変わっているが、あれは印刷物の形でも十分に読みやすい──むしろそのほうが読みやすい。それは、キングが従来の小説と同じスタイルで書いているからだ。しかし、『ストレート・レザー』のスタイルは違う。本書が奇異に見えるのは、印刷物の形をとっているからではないだろうか。もしもブラウザで見るのに適した形で提供されていたら、果たしてどうだろう?

 ジューダス・プリーストが自らの音楽を剃刀にたとえた「ブリティッシュ・スティール」だが、もっと激烈な音楽があふれる今では、その魅力はむしろ激しさ以外のところにある。『ストレート・レザー』もまた、いつかは奇抜でもなんでもない作品になるのかもしれない。

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愛はいかがわしく

負け犬ペテン師、人生張った大バクチ

愛はいかがわしく ジョン・リドリー / 角川書店

 なにをやっても裏目に出る、って時がある。一度や二度ならいいけれど、いやと言うほどそんな目に会うやつもいる。

 本書の主人公、ジェフティもそんな不運な連中の一人だ。成功を夢見てハリウッドに出てきたはいいけれど、今じゃケチな寸借詐欺でその日をしのいでいる。女には縁はなく、友は酒とバーテンだけ。おまけに借金地獄に首まで浸かっているときたもんだ。

 物語の冒頭、ジェフティは高利貸しの用心棒に指をへし折られてしまう。次は命だ、と脅されながら。かくしてこの冴えない詐欺師は、借金地獄から抜け出すべくあの手この手を繰り出すが……

 半端じゃなく切羽詰った状態に置かれているジェフティの様子を見ていると、なぜか西原理恵子のマンガを思い出してしまう。彼女が描くダメ人間同様、ジェフティもかなり情けない(でもどこか憎めない)男なのだ。

 物語は、そんな負け犬が一念発起して大活躍という、お約束どおりの展開をたどる。もっとも、具体的に何をするのかは知らないほうがいい。だから、カバー見返しのあらすじ紹介は読まないほうがいいだろう。

 人生を賭けた大勝負に挑むジェフティの内面は前半とは打って変わってかっこよさすら漂うが、でもどこか憎めない情けなさは相変わらず。それはラストシーンにもちゃんと出ている。

 わずかな出番でもしっかりと印象を残す脇役たち。

 ハードボイルド・ヒーローみたいに減らず口を叩くのはいいけど、そのたびに酷い目に会う主人公。

 そして何より饒舌な語り口。

 会話だけでも十分に楽しませてしまうところは、作者の映画畑での経験がものを言っているのだろうか。映画の影響が濃厚な語り口は、エルモア・レナードを連想させる。

 もっとも、作者のハリウッドに抱く感情は複雑だ。後半、ジェフティが仕掛ける大勝負の設定にも、作者の複雑な愛憎がにじみ出ている。

 この作者の邦訳には、ほかに『ネヴァダの犬たち』(ハヤカワ文庫NV)という作品がある。こちらは言葉を切り詰めた、ジェイムズ・M・ケインばりの犯罪小説(オリバー・ストーン監督で映画化されているらしい)。こちらもオススメ。

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ドラキュラ戦記

吸血鬼が闊歩する、豪華な戦争活劇小説

ドラキュラ戦記キム・ニューマン / 創元推理文庫

時は1918年、第一次大戦のさなか。撃墜王・リヒトホーフェン率いるドイツ吸血鬼戦闘航空団が、西部戦線の空を血に染める。ドイツ航空団の拠点マランボワ城を探る指令を受けた英国情報部員は西部戦線へと向かう。

 一方、祖国アメリカを捨て、吸血鬼として生き続けるエドガー・ポオもまた、ドイツ皇帝のある依頼を受けてマランボワに向かう……。

19世紀末の大英帝国にドラキュラが君臨するという『ドラキュラ紀元』の続編。

ドイツ航空団の秘密兵器は、吸血鬼ものならではの怪奇趣味に満ちている。なにしろドイツ軍の上層部にいるのは、カリガリ博士やマブゼ博士といった「悪の科学者」なのだ(そういえば、リヒトホーフェンの二人の従僕って、20年代のドイツで「吸血鬼」の異名をとった実在の連続殺人者だ)。

そう、この作品の最大の特色は多彩な登場人物にある。リヒトホーフェン、マタ・ハリ、チャーチルといった実在の人物はもとより、さまざまな文芸作品や映画の作中人物が何人も登場する。ドイツの悪の科学者を筆頭に、前線で奇怪な人体実験を重ねるドクター・モローと助手のハーバート・ウェストやら、負傷して下半身付随になってしまうチャタレイさん、はてはフィリップ・マーロウの生みの親、レイモンド・チャンドラーまで顔を出す。

最も印象に残るのが、クライマックスで重要な役割を演じる、ある人物の存在だ。本当はこれを書きたかったのではないかと思えるほどで、著者がいかに吸血鬼好きかがうかがえる。

巻末には前作同様、膨大な登場人物事典が付いている。作中にでてくる人名のほぼすべてを網羅している。なにしろ、脇役にいたるまでほとんどすべての登場人物が実在、または原作つきなのだ。

 この事典、訳者が作ったようだが、もしかしたら翻訳よりも大変だったんじゃないだろうか。

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