Mr.クイン

ラディカル・シニカル・パズル

Mr.クインシェイマス・スミス / 黒原敏行訳 / ミステリアス・プレス文庫

 クインは麻薬王の影のブレーン。完璧な犯罪計画を立て、それをボスに伝授する。彼の存在を知るのはボスただ一人。彼の存在は腹心の部下たちにも知られていない。

 クインがめぐらす犯罪計画は綱渡りに似ている。危ない橋も渡ってみせるが、落ちたときのために網を張っておくことも忘れない。

 作中、クインはしばしば意図の読めない指示を下す。犬を飼え、壊れた携帯電話を用意しろ、などなど。その多くが実はこうした予防措置なのだ。数々の謎めいた指示が効果を発揮する後半は、クインたちの計画をかぎつける新聞記者の存在も手伝って、さながら謎解きミステリの解決シーンのような楽しさがある。

 完全犯罪めざして計画を練る犯罪者といえば、ほかにはリチャード・スターク描く悪党パーカーが有名だ。どちらも犯罪をビジネスと割り切っていることは共通している。冷酷ではあるが残酷ではない。綿密な下調べの上に計画を立て、日ごろからリスクマネジメントを怠らない。まっとうな仕事に就いていても、それなりに成功しそうな人物である。

 だが、パーカーとクインのあいだには大きな違いがある。

 それは家族の存在だ。

 パーカーは家族らしい家族を持たない。

 子供はいないし、第一作からすでに夫婦関係の破綻した男として登場する。しいて挙げるなら、愛人のクレアぐらいか。

 クインには妻子がいる。犯罪計画と並行して、クインの浮気が妻にばれてさあ大変、という騒動が描かれる。妙な屁理屈をこねて自分を正当化してみたり、ブラックではあるがユーモラスな一幕だ。

 だが、クインの家族に接する姿勢を見るがいい──その冷酷なまでの計算高さは、犯罪者としての彼の姿勢とまったく同じだ。浮気はあっけなくばれてしまうものの、その後は彼ならではの危機管理の手腕が発揮される。

 パーカーは家族を持たないからこそ、読者にそういう面を見せずにすんでいた。いや、彼はアンチ・ヒーローというよりは、たまたま犯罪を生業とする冷酷なだけのヒーローなのかもしれない。なにしろ愛人のクレアが人質にとられたときには、その身を案じて無理をしたこともあったくらいだから。

 クインは違う。家族でさえも「ビジネス」と同じような計算の対象にしてしまう。家族といえば利益関係以外のなにかで繋がっている存在、少なくともそういうことになっている。そんな幻想を軽妙に、しかし冷たく笑い飛ばしてしまうのがクインという男である。

 正統派アンチ・ヒーローの登場だ。

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ジョン・ランプリエールの辞書

知性と教養の豪勢な無駄遣い

上巻下巻ローレンス・ノーフォーク / 青木純子訳 / 創元推理文庫

 時は18世紀末。英仏海峡に浮かぶ小さな島で育ったジョン・ランプリエールは、たまたま貴族令嬢が水浴しているところを目撃してしまう。同じように水浴を目撃した彼の父は、猟犬たちに襲われて殺されてしまった。

 父の遺産相続手続きのためロンドンに渡ったジョンを待ち受けていたのは巨大な陰謀だった。だが、そんなことに気づかない彼は、人に勧められるまま辞書づくりを開始した……

 史実の人物を主役に据えた歴史ミステリ風の作品。だが、地に足のついた(悪く言えば地味な)作品だと思ったら大間違い。さまざまな謎と大道具と小道具がごった煮になった、にぎやかで楽しい小説なのだ。

 精緻な自動人形。

 ロンドンの地底に広がる、有史以前の巨大生物の骸とされる地下洞。

 インドから来た暗殺者。

 100年前のフランスでの宗教紛争。

 そして何より、後半三分の一で描かれるある道具の存在には、びっくりしてひっくり返ってしまった。

 そんな物語をつづる文章もまた、どこか読者を翻弄するような調子。言葉の端々に作者の教養がたっぷりと練りこまれている。これは、たとえばスティーヴン・キングみたいに、じっくりと書き込んで読者を作品世界に引きずり込もうという作家とは一線を画している。どこか「遊んで」いるのだ。一筋縄ではいかない文章だが、なかなか魅力的で、いつまでも読んでいたいという気分になる(そして、分厚いからかなり満足できる)。

 できれば、たっぷり時間を取って、ゆっくりと読みたい小説。

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北米探偵小説論

ISBN:4309902847 野崎六助 / インスクリプト

 3000枚に及ぶ大著。『20世紀冒険小説読本【海外篇】』は小説を通して歴史を見る本だが、こちらは歴史を通して小説を見る。といっても、折々の社会事象が小説にどのように反映されたか、という単純な話ではない。

 いわば、探偵小説という形式から見たアメリカ文学論でもあり、日本ミステリ、在日朝鮮人文学と言った領域にも話題は広がってゆく。

 「北米探偵小説論」と名付けられているものの、ときとしてそれは「北米」からも「探偵小説」からも逸脱して、たとえばアメリカ共産党の日系党員の話や、野坂参三スパイ説にページが費やされる。ただし、それらは決して本論と無関係ではない。

 前半の主役は二人。ヴァン・ダインとダシール・ハメット。特にヴァン・ダインにはかなりのページを費やし、彼の作り上げたもの、本当に作ろうとしていたもの、そして後継者たちが引き継いだものが語られる。こうしてみると、確かにアメリカのミステリにおける彼の役割は重要だったのだろう。とはいえ、今ではやっぱり「資料的価値」の強い作家だと思うので、無理に全作を読むこともないと思う。

 繰り返されるのは、様式の確立と、そして様式を生み出した作家自身がその様式に縛られる過程だ。ヴァン・ダインも、ハメットも、チャンドラーも、ロス・マクドナルドも、自らの作り上げた様式に囚われてしまう。本書の終わり近くで批判される、ハリウッド映画的なジャンルミックス型作品もまた、そうした「様式」の一形式なのかもしれない。

 ある様式に則って書き続けること自体は、一向に差し支えない。だが、「様式に則って何かを書く」のではなく、「様式を書く」状態になってしまった場合は、作品からは輝きが消えてしまうだろう。アンドリュー・ヴァクスの近作のように。

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サヴェッジ・ナイト

物語そのものが壊れてゆく、小さな破滅の物語>

ISBN:4881357301 ジム・トンプスン / 門倉洸太郎訳 / 翔泳社

 小男の殺し屋リトル・ビガーは、ある裁判の重要証人の口封じに雇われて、田舎町にやってきた。学生を装って、標的の家に下宿しながら、暗殺の機会をうかがっていたが、標的の妻、足に障害を持つ女、世話好きの老人など、一筋縄ではいかない人々が彼の周囲に現れる……。

 ゆがんだ世界のゆがんだ物語。誠実にして邪悪な主人公もさることながら、自堕落な標的の妻、片足に障害を持つ女といった女性陣にも、とらえどころのない感覚が漂っている。そして何より、主人公に親切にしてくれる老人。善意に満ちていながら、その善意のあらわれかたはどこか不気味だ。

 終盤の壊れ具合は戦慄モノ。単純なクライム・ノヴェルに見せて、結末の破天荒な展開からはかなり精緻な構造が浮かび上がる。

 巻末には馳星周の絶賛文章がついているが(エルロイの『ホワイト・ジャズ』、ヴァクスの『凶手』以来の熱さだ)、馳星周が絶賛するのはきわめて当然のこと。それ以外の向きにも、もっともっと評価されてしかるべき作家だと思う。

(※『残酷な夜』のタイトルで扶桑社からも刊行)

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ゼウス -人類最悪の敵

人類 vs 怪獣軍団の死闘

大石英司 / ノン・ノベル

 北海道で起きた謎の事故。その後、UFOに誘拐されたという女性の胎内を食い破って出現した謎の生物は、山中へ逃げた。やがて、その生物は増殖し、2mの巨体と驚異的な運動能力をもって、群れをなして人類を襲う。やがて世界各地で同様の事件が起き、その生物は「ゼウス」と命名された……。

 群をなす怪獣が北海道に出現……というわけで、思い出すのは「ガメラ2 レギオン襲来」。もっとも、ゼウスはレギオンみたいに巨大化するわけではない。そして何より、お子様向け怪獣映画では絶対に描写できない特性の持ち主だ。

 そう、ゼウスは女性を襲う。そして胎内で増殖するのだ。強姦超獣ゼウス、とか書いてしまうと「ウルトラマンA超獣大図鑑」のような趣きがあるが、下手するとウルトラセブン第12話の仲間入りだ。

 これを迎え撃つ人間側は、というと、主に北海道住民と自衛隊の活動を中心に描かれる。市長の座を狙っていた一市会議員が、たまたまリーダーシップを発揮して、町を要塞化してゼウスの侵入を防ぐことに成功したり、自衛隊の元レンジャーとその息子との関係が描かれたり。ただし、日本政府があまりに有能なのは少々リアリティを欠いていたように思う。まあ、十分デスペレートな状況なので、物語を根幹から損なうことはない。

 真っ先に連想したのは梅原克文。ジェットコースターのように進む物語、型通りの登場人物。とはいえ、それがあながち欠点とはいえない。「典型的」な人物が多いおかげで、物語は非常に分かりやすいものになっている。ただし、ゼウス出現の背景までもがかなり陳腐になってしまったことは否めないが。

 「怪獣もの」に好意的な人間ならば、それなりに楽しく読める怪獣パニック小説。

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内なる殺人者

心に闇を抱えた男が語る、「おれたちみんな」の物語

内なる殺人者 おれの中の殺し屋
河出文庫 (→ 河出書房新社)/ 村田勝彦訳
扶桑社ミステリー / 三川基好訳

 世の中には二種類の人間しか存在しない──ジム・トンプスンの小説を読んだことがある者、そして読んだことのない者。ちなみに、ジム・トンプスン本人という第三の分類が存在したのは1977年までのことである。

 最近は『ポップ1280』や 『サヴェッジ・ナイト』(扶桑社版では『残酷な夜』)で日本での評価も高まりつつあるトンプスンの、鳥肌の立つようなスリリングな一品である。

 『ポップ1280』と同じく、主人公ルー・フォードは田舎町の保安官。建設業者への復讐をきっかけに、次から次へと殺人を繰り返すはめになった彼は、だんだんその歪んだ内面をさらけだす……というストーリー。

 何よりも戦慄を覚えるのは、ルー・フォードという「内なる殺人者」を抱えた男の造形である。まっとうな保安官と異常な殺人者とが渾然一体となったその人格。それらはジキルとハイドのような二重人格として区分けされるようなものではなく、いたってシームレスにつながっている。

 しかも、そんなフォードの内面が一人称で綴られる。歪んだ衝動を抱えた男のふるまいが、その内面から描かれる。両刃の剣のような試みだ。うまくいけば傑作だが、一歩間違えば読むにたえない作品になってしまう(実際、異常殺人者の一人称でこれほど効果を上げているものといえば、すぐに思い浮かぶのはジェイムズ・エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』くらいだ)。

 たいていの人々はレクター博士の精緻な殺戮を、娯楽としてたのしむことができる──彼は観客を驚かせ、楽しませるために入念に造形された「怪物」であり、生身の人間とは異なる存在だ。我々の日常とは切り離されたところに生きている一種のヒーローである。だからこそ多くの人々が、『ハンニバル』のあの冒涜的な結末に愕然としたのだろう(人間性に対する冒涜ではない、レクターに対する冒涜だ)。

 だが、ルー・フォードのいきあたりばったりの凶行は、娯楽として消費されることを頑なに拒んでいる。内に殺人者を抱えている男だが、その行動原理は異様なまでに筋道が通っている。ルー・フォードは「怪物」ではない──人間だ。平凡なサイコ・スリラーの書き手と違って、トンプスンは「狂気」という便利なキーワードを使ってルー・フォードを「怪物」に仕立てるようなことはしない。

 これは「怪物」の物語なんかじゃない。結びの言葉にあるような、「おれたちみんな」の物語だ。暴力の渦巻く世界では、人々の内面もまた暴力に侵されてゆく。

 世の中には二種類の人間しか存在しない──自分の「内なる殺人者」の存在に気づいている者、そして断じてその存在を認めない者。

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彼らは廃馬を撃つ

一瞬の虚栄、一瞬の死

ホレス・マッコイ / 常盤新平訳 / 角川文庫
 物語は裁判所で幕を開ける。ひとりの男が、女を殺した容疑で裁かれ、まさに判決を下されようとする瞬間。男の脳裏をよぎったのは、女との出会い、苛酷なマラソン・ダンスへの出場、そして殺人……。

 アメリカ。不況のさなかの30年代。夢を求めてハリウッドにやってきた男女が、狂躁のマラソン・ダンスに参加する。目指すは1000ドルの賞金、そして映画関係者の目にとまること。

 マラソン・ダンスは苛酷な競技だ。何組もの男女が1時間50分踊り続け、その後はわずか10分間の休憩。そしてまた踊り続ける──自分たちが脱落するか、あるいは最後の一組になるまで。疲労がたまった出場者たちの行動はおかしくなる。意識は朦朧として、パートナーには憎しみを抱くようになる。そんな彼/彼女たちの奇行を見に集まる観客たち。

 主人公の男女は、わずかなチャンスに賭けて、時代の徒花のようなこの見せ物競技に挑戦する。

 印象的なタイトルだ。虚栄の裏側で、スポットライトを浴びることなく消えてゆく男女をクローズアップした作品である。あるいは、夢みることとその残酷な結末を描いた作品である。

 文体がハードボイルド、というわけではない。殺人事件が描かれ、それは物語の重要な位置を占めているが、かといって正面きって犯罪が描かれるわけでもない。にも関わらず、この作品に漂うのはハードボイルド、あるいは暗黒小説と同種の空気だ。

 男はなぜ女を殺さねばならなかったのか、という一点に向かって収斂する物語は、無駄なく進んでゆく。その過程で浮かび上がるのは、マラソン・ダンスの持つ俗悪さだ。その俗悪な環境の中で、必死に這い上がろうとする男女だ。そして観衆と参加者は対比され、持てる者と持たざる者の格差が浮き彫りになる。

 絶望的なフィニッシュではある。しかし殺し殺される関係でありながら、二人の間には温かみが感じられ、それは男の最後の言葉に結晶している。

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鮮血色の夢

ニューヨークで繰り広げられる、民族の血と憎悪の戦い

マイクル・コリンズ / 木村仁良訳 / 創元推理文庫

 片腕の私立探偵フォーチューンが依頼されたのは、ユーゴスラヴィアから亡命してきた老人の捜索。教会に張り込んでいた彼の見込み通りに姿を現した老人だったが、フォーチューンが声をかけると夜の底に消えていった……。

 舞台は70年代のニューヨーク、枠組みは典型的私立探偵小説、でも内容はまるで90年代の小説みたいだ。

 本書に登場する人々の多くが東欧系である。主人公の探偵フォーチューンもポーランド系だ。彼が創作を依頼される老人はユーゴスラヴィア出身。老人の娘婿はリトアニア人。ハンガリー動乱に参加した、ハンガリーからの亡命者も登場する。

 祖国を失い、その解放に憑かれた人々。リトアニアの土を一度も踏んだことのないリトアニア青年が戦いを叫び、動乱で戦った老将が解放を訴える。これは、そんな人々が織りなすドラマだ。圧制と憎悪の歴史に翻弄された人々の悲劇だ。

 クライマックスで明かされる真相は、民族紛争の歴史と、その重みを負った人々の業を感じさせ、実に衝撃的だ。

 本書の舞台はニューヨークだが、登場人物たちの心のよりどころの在処を思えば、本当の舞台はニューヨークではない。抑圧するものとされるものの構図がくっきりと浮かび上がる東欧諸国……あるいは、もっと普遍的な世界そのもの。

 ちなみに、ここに描かれるのとよく似た「抑圧者の正史-被抑圧者の叛史」というモチーフを多用する船戸与一の作家デビューは、本書の発表からほんの数年後のことである。冷戦構造を下敷きにした小説があふれる中で、船戸与一もコリンズも「その先」を見ていたのかもしれない。

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けだもの

ISBN:4167527626 ジョン・スキップ&クレイグ・スペクター / 文春文庫 (解説)

 これは人狼による血みどろの殺戮劇を描くホラーだ。
 激しい情念がからみ合う恋愛小説だ。
 登場人物が自己の内なる獣性と対峙する暗黒小説【ノワール】だ。
 この作品のスタイルはスプラッタパンクと呼ばれる。スプラッタパンク=血まみれ映画【スプラッタ】+爆走音楽【パンク】。八〇年代アメリカに出現した、若手ホラー作家が中心の、世間の良識に楯突くようなムーブメントだ。彼らの作品はスプラッタ映画やB級SF映画、そしてロックからの影響が強く、またどぎついエロス&バイオレンス描写で飾りたてられている。ヤバさに満ちたそのスタイルは、お上品な「良識派」の嫌悪と軽蔑に満ちたまなざしを一身に浴びる。古典的な怪奇小説を端整なクラシック音楽とするならば、これは狂騒のヘヴィ・メタル。首から上よりも、腰から下を刺激するようなしろものだ。
 スプラッタパンクは、古典的な怪奇小説と異なり、未知のなにかに対する恐れの感覚を醸し出すことを重視していない。むしろ、スプラッタ映画風の暴力やセックスに象徴されるような、皮膚感覚の恐怖を描くことに力を入れている。
 『けだもの』にも、スプラッタパンクにつきものと言っていいエロスとバイオレンスが盛り込まれている。だが、決して扇情的なだけの小説ではない。暴力もセックスも、この物語にとっては必要にして欠かすことのできない要素なのだ。

 物語の開幕からまもなく、離婚の成立を知らされたシドは別れた妻のことをあれこれ思い出して悲嘆に暮れる。その心理を綿々と綴る文章からうかがえるのは、これは恋愛小説にほかならない、ということだ。シドとノーラとヴィクの三角関係が提示されてからは、恋愛小説としての側面はさらに明確になる。内省的な人物であるシドの心理描写が目立つが、ノーラやヴィクの心の動きもじっくり描かれている。それは読者に物語への没入をうながし、登場人物たちの感情の高まりを疑似体験させる。
 激情は肉体を動かす。セクシャルな場面が頻繁に描かれるのは、激しい感情がストレートに行動に結びついているからだ。また、男女がベッドで(あるいはそれ以外のところで)繰り広げる行為の子細も、人物描写の重要な部分を占めている。たとえば執拗なまでに避妊を拒むノーラの行動の背後にあるのは、彼女が抱えている心の重荷だ。また別の場面では、生殖とは無縁なヴィクの暴力的な性行為が、重荷を抱えたノーラの心を致命的に深く切り裂いてしまったことが示される。
 セックスだけではない。本書の殺戮シーンもまた、男女の愛憎と深く結びついている。登場人物たちは何度か野獣の姿に変身して人々を殺す。しかし、犠牲者の命を奪う瞬間が直接描かれる場合と、そうでない場合とがある。殺す瞬間が読者の目の前に提示されるのは、殺戮の動機が、嫉妬や復讐といった愛する者をめぐる感情にある場合に限られる。逆に、生活のための「狩り」などの場合は、殺しの瞬間が直接描かれることはまずない。せいぜいその死体が示される程度(それだけでも十分に凄惨だが)、あるいは犠牲者から奪った品々に言及するくらいだ。つまり、この小説に描かれる暴力のほとんどは、極端な形での愛憎の表現であり、セックスと隣り合わせの行為である。

 登場人物がふるう暴力もまた、この作品の重要なテーマだ。作中の一部の男女は、常にひとつの問いを突きつけられている。
 自分の中のけだもの=暴力衝動と、どのようにつき合うか?
 この問いは「狼への変身」との対峙という形で提示される。ある者はけだものを解き放ち、衝動のままに人を狩って生きてゆく。ある者は自己のルールを定め、そのルールのもとにけだものを律しながら生きてゆく。
 この作品における人狼とは、外部からの感染というよりは、むしろ内面からの覚醒にもとづく存在として描かれている。作中、登場人物がいくつもの映画を見て物足りなさを感じる場面があるが、そこで狼男映画と並んで名前の挙がる作品に、なぜか狼とは無縁な『ザ・フライ』や『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』が含まれているのは象徴的だ。『ザ・フライ』の物語は、新しい発明品の実験時に起きた事故によって、身体がハエと融合してしまった科学者の悲劇である。それは「自分が自分でないものに変わってしまう」というアイデンティティの侵蝕だ。だが、本書での狼への変身とは、自分の暴力衝動が肉体に顕現する、いわば極端な形での激情の噴出なのだ。そしてその暴力衝動は、『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』に描かれるような無意識の奥底に潜んでいるものではなく、もっと明確に意識されているものだ。
 このような、自分の中の暴力衝動に向き合う恐怖についてノーラは言う。

「獣性恐怖。野獣を怖れること。自己投影のようなもの。一種の自己嫌悪ね。自分のなかの狂暴で不合理な部分を怖れること。たいていの人が、死ぬほど怖れているわ」

 それは、古典的なホラーの描く「被害者としての恐怖」とは異なる、いわば「加害者としての恐怖」である。たとえば、シドは妻を寝取った男のもとに乗り込んで暴力衝動を爆発させたことがある。その記憶があるからこそ、彼は自分のなかのけだものを恐れるのだ。本書の登場人物たちの暴力衝動は、愛情や嫉妬、復讐心といった、人間的な感情をきっかけに噴出するという点で、「狂気」という便利なキーワードですべてを片づける凡庸なサイコ・スリラーよりもはるかに真に迫っている。

 このような暴力衝動の扱いは、ジム・トンプスンやジェイムズ・エルロイ、あるいは馳星周といった作家たちの作品に通じる。「暗黒小説」と呼ばれるこれらの小説は、犯罪について語ることで暴力を描いている。スプラッタパンクが、超自然現象などを通して暴力を描いているように。また、多くのミステリーが被害者や捜査側の眼で事件を追うのに対し、暗黒小説はしばしば犯罪者の視点から描かれる。
 たとえば、『けだもの』という題名がほのめかす獣性=暴力衝動を、さらにストレートな形で題名に表現した小説がある。ジム・トンプスンの『内なる殺人者』(河出文庫)だ(2008/01追記:2005/06に三川基好による新訳が刊行された)。心に歪みを抱えた保安官補の一人称で語られる、私的な復讐をきっかけにくり返される殺人の物語。彼の精神には気さくな保安官補と殺人狂が境界なしに同居する。それは「向こう側」の怪物めいた「狂気」ではない。彼の行動は異様ではあるが、不自然なところはない。トンプスンの描くしたたかな異常さは、「こちら側」の我々にも説得力を持っている。加害者の視点に立った、暴力衝動が暴発するまでの心理描写が読者を震撼させる。
 スプラッタパンクというスタイルは、加害者からの視点による恐怖を描くことを容易にした。典型的なホラーが、恐怖現象の受け手の心理を重視するのに対し、スプラッタパンクは即物的な血まみれの暴力描写に力を入れる。主観的な心理よりも、客観視可能な肉体。それゆえに、被害者の視点にこだわる必然性は薄れたのだ。
 そして、暴力衝動を恐怖として描くだけでなく、誘惑として描くところもまた暗黒小説を思わせる。シドはノーラと関わり合ううちに、彼女の心に巣食う暴力嗜好に気づきながらもその世界に搦め取られてゆく。これまでに築いた日常を、友人を、社会のルールを捨ててもなお、シドを駆り立てる衝動。周囲からは堕落としか見えないだろうが、彼が感じるのは幸せな解放感だ。健全さを持ち合わせた人物として登場するシドが、どこまでノーラの「暗黒」に沈んでいくのか。それは本書のテーマのひとつでもある。
 シドよりはるかに暗黒小説的なのが、ヴィクとノーラだ。二人とも、暴力を称揚し、嬉々として人を狩る。法律など何とも思わないアウトローで、弱肉強食という原理を信じている。
 特にヴィクは裏の主人公とでも言うべき人物だ。ストーリーを動かす存在であり、積極的に行動して物事のイニシアチブを握ろうとするタイプだが、ノーラを憎みながら愛し、彼女から離れられずに堕ちてゆく破滅的な男でもある。いわば、暗黒小説に登場する主人公の典型なのだ。
 一方のノーラは、初登場の場面で映画『ギルダ』のヒロインにたとえられる。『ギルダ』をはじめとする、四〇~五〇年代に作られた「フィルム・ノワール」と呼ばれる一連の映画は、テーマやスタイルの面で暗黒小説と深く結びついている。奔放なふるまいで男たちの心をかき乱すところを除けば、ノーラの人物像は映画のギルダとはさほど似ていないのだが、彼女がフィルム・ノワールや暗黒小説につきものの「運命の女【ファム・ファタール】」であることは明白だ。暴力の翳を帯びた危険な魅力の持ち主であり、男たちを翻弄する存在である。
 本書は、シドの性格づけのおかげで典型的なアメリカ産娯楽小説となりおおせている。だが、もしもこの物語をヴィクとノーラの──特にヴィクの視点から描いたならば、まぎれもない暗黒小説になっていたに違いない。

 さて、この物語を創った男たちのほかの作品についても記しておこう。残念なことに、そのほとんどが未訳だ。
 ジョン・スキップ(一九五七年生まれ)とクレイグ・スペクター(一九五八年生まれ)は学生時代に出会い、映画関係のライターをしながら短編でデビューした。
 二人の合作になる長編は、以下の六作がある。
 “The Light at The End”(86)では、ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる。(2003年追記:その後『闇の果ての光』として文春文庫から邦訳が出た)
 “Cleanup”(87)では、ひとりの青年が「天使」のお告げを聞き、汚れた街の浄化に乗り出す。
 彼らの音楽の嗜好が垣間見える“The Scream”(88)では、悪魔的なヘヴィ・メタル・バンドが描かれる。
 それまでに発表した短編をまとめて長編に仕立てたのが“Dead Lines”(89)。ちなみに、この作品の一部となった短編「男になれ」(Gentlemen,87)は、「SFマガジン」九〇年五月号に訳出されている。
 “The Bridge”(91)は環境問題をテーマにした破滅もの。
 そして本書、『けだもの』(Animals,93)。
 なお、このほかに映画『フライトナイト』のノベライゼーション(86、講談社X文庫)がある。
 二人は『けだもの』を最後にコンビを解消し、以後はそれぞれがアンソロジーなどに個別に短編を発表している。
 また、ジョージ・A・ロメロに捧げられたゾンビ小説アンソロジー『死霊たちの宴』(89、邦訳98、上下巻、創元推理文庫)および続編“Books of The Dead 2:Still Dead”(91)の編者でもある。
 このほか、映画『エルム街の悪夢5ザ・ドリームチャイルド』(89)の脚本にも関わっている。映画ということで付け加えておくと、二人は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のカラー版リメイク(90)やクライブ・バーカー監督の『ミディアン』(90)で、エキストラとしてゾンビを演じた。

 「パンク」と名のつくムーブメントの定石どおり、運動としてのスプラッタパンクは今はもう沈静化している。だが、良質な作品は運動の盛り上がりとは関係なく読まれてしかるべきだろう。すでにコンビを解消している二人だが、長編の邦訳はノベライゼーションを除けば本書が初めてである。これから彼らの他の作品、あるいは他の作家たちの代表作の紹介が進むことを期待しよう。
 まずは、激情に満ちたこの作品を存分に楽しんでいただきたい。
 ただし……内なるけだものを解き放たないように、くれぐれもご注意を。

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第二次宇宙戦争

火星人兵器を手にした人類の運命は……?

ISBN:4584178887伊吹秀明 / ワニ・ノベルス

 タコ型火星人のイメージを世間に流布したH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の後日談。

 地球に侵攻した火星人が細菌で死に絶えてから十四年、第一次大戦下の西部戦線にイギリス軍が送り込んだ秘密兵器、それは火星人の戦闘機械だった……! という幕開けから、一転して舞台は革命直後の混乱のさなかのシベリアへ。ロシアの混乱に乗じた、日本軍の秘密計画が語られる。

 異星人のテクノロジーを手にした地球人という設定は、いろいろなアニメでも見たような気がするし、本書と同じような時代を背景にしたものでは山田正紀の『機神兵団』なんてのもある。そういう他の作品との最大の違いは、やはりこれが他ならぬウェルズの『宇宙戦争』のパスティーシュである、というところ。原典に登場した事物もふんだんに描かれ、ウェルズの小説(作中ではもちろんノンフィクションと言うことになっている)をラジオや映画にした人物たちも姿を見せる。「火星人襲来」のラジオ放送でパニックを巻き起こしたオーソン・ウェルズはちょっと皮肉な役を与えられ、「宇宙戦争」を映画化したジョージ・パルはUFOの目撃者として出演する。

 また、火星テクノロジーの軍事利用がその後の軍事技術に及ぼす影響なんてのも描かれている(この辺、やはり架空戦記の作家ならでは)。プロローグで西部戦線に姿を見せる火星人兵器はその典型だ。

 と、本書に詰め込まれているアイデアは実におもしろい。ただし残念なことに、ストーリーテリングがかなりぎくしゃくしているし、登場人物の心の動きも説得力に欠ける。20年以上にわたる、地理的なスケールも大きな物語を、けっこうあっさりと片づけてしまっているのが原因だろうか。これは意図的に避けたのだと思うが、1930年代後半の(史実では緊迫していた)国際情勢について、何も触れられていないのも不満が残る(火星人が攻めてきたともなれば、それなりに歴史の流れも変わるはず)。

 ……もっとも、数々の魅力的な素材だけでも十分最後まで読まされてしまうのだが。『米軍基地に宇宙人の死体が』といった宇宙人陰謀話が広まる以前の宇宙人像には、懐かしさすら感じてしまう。

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