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内なる殺人者

ノワール

心に闇を抱えた男が語る、「おれたちみんな」の物語

内なる殺人者 おれの中の殺し屋
河出文庫 (→ 河出書房新社)/ 村田勝彦訳
扶桑社ミステリー / 三川基好訳

 世の中には二種類の人間しか存在しない──ジム・トンプスンの小説を読んだことがある者、そして読んだことのない者。ちなみに、ジム・トンプスン本人という第三の分類が存在したのは1977年までのことである。

 最近は『ポップ1280』や 『サヴェッジ・ナイト』(扶桑社版では『残酷な夜』)で日本での評価も高まりつつあるトンプスンの、鳥肌の立つようなスリリングな一品である。

 『ポップ1280』と同じく、主人公ルー・フォードは田舎町の保安官。建設業者への復讐をきっかけに、次から次へと殺人を繰り返すはめになった彼は、だんだんその歪んだ内面をさらけだす……というストーリー。

 何よりも戦慄を覚えるのは、ルー・フォードという「内なる殺人者」を抱えた男の造形である。まっとうな保安官と異常な殺人者とが渾然一体となったその人格。それらはジキルとハイドのような二重人格として区分けされるようなものではなく、いたってシームレスにつながっている。

 しかも、そんなフォードの内面が一人称で綴られる。歪んだ衝動を抱えた男のふるまいが、その内面から描かれる。両刃の剣のような試みだ。うまくいけば傑作だが、一歩間違えば読むにたえない作品になってしまう(実際、異常殺人者の一人称でこれほど効果を上げているものといえば、すぐに思い浮かぶのはジェイムズ・エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』くらいだ)。

 たいていの人々はレクター博士の精緻な殺戮を、娯楽としてたのしむことができる──彼は観客を驚かせ、楽しませるために入念に造形された「怪物」であり、生身の人間とは異なる存在だ。我々の日常とは切り離されたところに生きている一種のヒーローである。だからこそ多くの人々が、『ハンニバル』のあの冒涜的な結末に愕然としたのだろう(人間性に対する冒涜ではない、レクターに対する冒涜だ)。

 だが、ルー・フォードのいきあたりばったりの凶行は、娯楽として消費されることを頑なに拒んでいる。内に殺人者を抱えている男だが、その行動原理は異様なまでに筋道が通っている。ルー・フォードは「怪物」ではない──人間だ。平凡なサイコ・スリラーの書き手と違って、トンプスンは「狂気」という便利なキーワードを使ってルー・フォードを「怪物」に仕立てるようなことはしない。

 これは「怪物」の物語なんかじゃない。結びの言葉にあるような、「おれたちみんな」の物語だ。暴力の渦巻く世界では、人々の内面もまた暴力に侵されてゆく。

 世の中には二種類の人間しか存在しない──自分の「内なる殺人者」の存在に気づいている者、そして断じてその存在を認めない者。

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