禿鷹の夜

不良警官vs暴力団vs南米マフィア

ISBN:4167520060逢坂剛 / 文藝春秋
 組織の枠から逸脱した暴力刑事と昔気質の暴力団とが手を組んで、南米マフィアと対決する。

 主役はこの暴力刑事。禿富鷹秋、通称禿鷹。ちょっと難のある命名ではあるが、この人物のワルさは確かにコンドルのようなイメージである。

 最近はやりの「幼年期のトラウマ」も「精神異常殺人者」も出てこない。ジェイムズ・エルロイみたいに狂った妄念をこめるでもなく、一部で人気沸騰のジム・トンプスンのようなとんでもない境地に読者を誘うわけでもない。

 いたずらに先鋭化したり刺激を追い求めることなく、扇情的な性や暴力の描写も抑えながら、この手のジャンルの往年のスタンダードを貫いている。

 どちらかといえば古典的なノワールだ。そういえば著者自身、50年代前後の海外ミステリがお好きなようである(ハドリー・チェイスの『世界をおれのポケットに』復刊の推薦者は逢坂剛)。

 ただ、最後のアレ(単行本p.356の10行目で言及されるようなこと)はちょっとよけいだったかな、と思う。

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囁く血

エロティシズムとホラーの強烈な結合

ジェフ・ゲルブ&マイケル・ジャレット編 / 祥伝社文庫

 さあ、下品な本の話ですよ。子供とまじめな大人は見ないようにね。

『震える血』(原題 Hot Blood)、『喘ぐ血』(原題 Hotter Blood)に続く、エロティック・ホラーアンソロジー第3弾(原題はHottest Blood!)。

 収録作の一部が割愛されている(残念!)が、巻を追うごとにテンションが上がっているのがよくわかる。ネタがかぶってばかり(しかも男性にのみ痛いネタ)だった1巻、スプラッタパンク色がにわかに濃くなった2巻に比べると、収録作のバランスもとれているし水準も高いように感じる。

 デイヴィッド・J・ショウ*1「心の在処」、ジョン・シャーリィ「愛咬」あたりは、スプラッタパンクの本領発揮ともいうべき作品(特に前者!)。そんな一方で、グレアム・ワトキンス「妖女の深情け」みたいな艶笑小話ふうの愉快な佳品も収録されている。

 しかし本書の頂点はやはりグレアム・マスタートン「おもちゃ」とクリス・レイチャー「異形のカーニバル」。フリーキーな性描写の、後を引くよなえげつなさに思わず愚息も萎え萎え。ある種の肉体破壊ではあるが、スプラッタ描写よりも遙かに凄惨である。特に後者、井上雅彦ふうの題名に騙されてはいけない。男なら、こんなふうにナニされるのだけは避けたいものである。

 それにしても、完訳でないのは惜しまれる。どーせそんなに厚くないんだから、「文体が難儀」とか「日本の読者には受けない」とか言わないで訳してくれてもいいのに(しかし、日本人向けでないえっちホラーってのはどんなネタだ)。

*1 : 2008/01/04追記:カナ表記が違うけど、『狂嵐の銃弾』のデイヴィッド・J・スカウです。

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虚船-大江戸攻防珍奇譚

矢追純一的宇宙人と時代小説が、ジュニア小説*1の上で出会う

 時は江戸時代。日本各地で空に浮かぶ光る物体が目撃され、また物体に人が誘拐される事件や、家畜が切り刻まれる事件が続発していた。幕府は調査のためにひそかに「青奉行」という機関を設けて、光る物体—「虚船」の謎を調査していた。

 家畜が切り刻まれる現象は「キャトルミューティレーション」、宇宙人に誘拐されて謎の手術を施される現象は「アブダクション」として、矢追純一などの著書でしばしばとりあげられるできごとである。

 本書は、そんなキャトルミューティレーションやアブダクションをやらかす宇宙人と、幕府の秘密組織との戦いが描かれる(幕府が宇宙人と密約を結んだりはしていないようだ)。宇宙人に誘拐された人間には、ちゃんと謎の物体が体内に埋め込まれる(何が「ちゃんと」だか)。

 アイデアとしては非情に面白い。ただし小説としての描写が弱いと、この手のバカバカしい思いつきによりかかった作品はあっという間に読むに耐えないものになってしまう。本書では、地に足のついた時代小説的な描写と、ジュニア小説的な「軽さ」が同居している。このアンバランスな取り合わせ、一歩間違えば支離滅裂になりかねないと思うが、そこは巧みに乗り切っている。もっともクライマックスには巨大ロボットらしきものまで登場するので、時代小説好きには不満もあるだろう(そんな人がこの文庫を手に取ることはあまりないと思うが)。

著者はイギリスのTVシリーズからアイデアを得たそうだが、クライマックスの描写などを読むかぎり、国産特撮ものの影響も強いような気がする。

*1 : 2008/01補足:当時の私にとって、「ライトノベル」という語句はまだなじみのないものだった。

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不器用な愛

彼と彼女の世界の認識

ISBN:4562033045エマニュエル・ベルナイム / 稲松三千野 / 原書房

 パーティの席で出会ったエレーヌとロイックのふれあいとすれ違いを描く恋愛小説。

 ドラマチックなできごとはほとんど起きない。二人がディナーを共にし、あるいはベッドを共にし、あるいは会う約束が反故になり、という様子が淡々と語られる。

 主に描かれるのは二人の行動、そして物事。そのディテールがつぶさに描かれる。二人の心の動きの大部分は、こういった事物を通じて語られる。もちろん内面描写もなくはない。だが、二人がお互いをどう考えているかということすら遠回しにほのめかされる程度である。

 行動を通して人物を描くというと何だかハードボイルドみたいだが、そういえばこの作品にはダシール・ハメットの作品のようなそっけなさも感じられる。ハメットの切り詰められた言葉が、実はきわめて密度が高いということはよく言われているが、この小説もそうだ。

 ただし、ハメットがあくまでも客観的な描写を目指したのに対し、この小説での事物の描写は、あくまでも二人のどちらかの視点に立ったものである。彼または彼女が、世界をどのように知覚したのか。彼または彼女がなにを認識し、何を認識しなかったのか。物事の描写には、そういう意味あいがこめられているようにも見える。行動を通して人物を描くというよりは、行動と知覚を通して人物を描く、といったところか。

 こういった面に読者の意識を誘導したいからだろうか、この小説では二人の会話らしい会話はほとんど出てこない。静けさは緊張をさらに高める。

 いつもスティーヴン・キングに代表されるようなアメリカ産娯楽小説、あるいは最近の国産ミステリーといった饒舌な小説ばかり読んでいるせいか、こういうある意味ストイックな作品はとても新鮮に感じられた。ヒロインの歯に野菜の切れ端がくっついてる様子までもが描かれる小説も、そんなにないような気がする。私がふだん読んでいるものが偏っているだけかもしれないが。

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カノン

妄想ダメ親父が拳銃片手に大暴走。クソどもは皆殺しだ!

カノンギャスパー・ノエ / 奥田鉄人 / 斎藤敦子訳 / 角川書店

 ATTENTION!

 こいつはヤバい作品です。ページを繰るときはご注意を。

 生まれて間もなく親に捨てられ、娘に手を出そうとした男に暴力をふるって刑務所に行き、出てからはヒモとして生きている中年男。信じられるのは自分だけ。アラブ人とホモ野郎に敵意をつのらせ、生き別れの娘の姿を追い求める男。ヒーローと呼ぶにはあまりにも薄汚いダメ人間だが、どこかハードボイルドな空気を身にまとっているのも事実だ。

 世間とうまく付き合えずに生きてきたそんな中年男が、ふとしたきっかけで暴発する。この男の世界観はいびつで自分勝手で冷酷そのもの。

 ATTENTION!

 世間の常識からは許されないようなカタルシスを味わえます。良識派を自認されている方はご注意を。

 クライマックスの妄想親父のキレ具合は果てしなく官能的ですらある。

 これ、ギャスパー・ノエによる映画を奥田鉄人がコミック化……というのは正しくないな、コミック・ノベル化したものである。小説でもあり漫画でもあり、という表現方法がここではかなり効果を上げている。主人公の顔はその頑なさをあますところなく表現しているし、彼のいかれた思考を綿々と綴る文章も読ませる。タイポグラフィもかなり自由に使いこなしている(特にクライマックス)。

 鬼畜そのもののフィニッシュは、それでも哀切に満ちている。

 かくも刺激的な作品が世に出るのは楽しいが、こんな作品がリアリティを帯びてしまう現実というのは……。

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消えた女

都会の闇が浮かび上がる大江戸ハードボイルド

藤沢周平 / 新潮文庫

 しがない版木の彫師・伊之助は、かつては凄腕の岡っ引きだった。だが、女房が男と心中して以来、浮かない日々を過ごしていた。だが、弥八親分の娘が失踪したと聞き、彼は重い腰を上げて、江戸の町にその行方を追うことになる……。

 時代小説作家・藤沢周平は一方で海外ハードボイルドの愛読者でもあったようで、この作品にはそんな作者の嗜好が如実に反映されている。

 いわくつきの過去を背負った元岡っ引きという伊之助のプロフィールは、60年代以降のアメリカ私立探偵小説に描かれる典型的な主人公像(一般市民を巻き添えにしてしまった元刑事など)と重なり合う。例えば、本書で伊之助はほかの岡っ引きから「もう一度十手を持たないか」と誘われるが、その姿はローレンス・ブロック描く元刑事のアル中探偵マット・スカダーが、ニューヨーク市警の刑事に「あんたは今もお巡りなんだよ」と復職を薦められる場面に符合する。

 そして作中に描かれる事件もまた、きわめて私立探偵小説的である。

 謎解きミステリの代表的な事件を「密室殺人」とするならば、私立探偵小説のそれは「失踪」だ。ブラックホールに飲み込まれたかのように、身近な人物が姿を消す。依頼を受けた私立探偵がその行方を追ううちに、失踪者が姿を消さざるをえなくなった事情が浮かび上がる。それはたいていの場合、社会が抱えるさまざまな問題に結びついている。失踪者を飲み込むブラックホールは、社会のひずみから生み出されるのだ。

 ほとんどの私立探偵小説が都会を描いているのは、その舞台としてそれなりに規模の大きな社会が必要だからだ。失踪者を飲み込んでしまえるくらいに大きく、複雑化した社会が。その点、当時世界有数の大都市だった江戸には、十分「失踪」の舞台になる資格が備わっている。

 ハードボイルドとはジャンルと言うよりは作品のスタイルだ。主人公はどこか社会体制に順応しきれない人物で、時には正真正銘のアウトローのこともある。その社会へのまなざしは、決して上から見下ろすものではなく、下から見上げる性質のものだ。

 本書が、江戸を舞台にしながらもなぜかアメリカの私立探偵小説を連想させるのは、作者がそういったハードボイルドの核を捉えていたからだろう。

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幻の終わり

幻の終わり キース・ピータースン/ 創元推理文庫

 昔気質の新聞記者ウェルズは、有名な海外通信員のコルトと出逢った。意気投合したふたりは、酔いつぶれるまで酒を呑む。その翌朝、コルトは謎の男に殺されてしまう。殺人の目撃者となったウェルズは、酩酊したコルトが口にした「エレノア」という女の名前を手がかりに、彼の過去を求めてニューヨークをさまよう。だが、その身に危険が迫る……。

 新聞記者ウェルズが登場するシリーズ第一作『暗闇の終わり』が絵に描いたような私立探偵風ハードボイルドだったので、てっきりこの本もそうだと勘違いしていた。だがこれは、作者がたくさん書いているようなスリラー/サスペンスなのだ。

 読者を飽きさせることなく次から次へと起きる事件。主人公ウェルズは思索型というよりは行動型だが、その行動の背景は見えづらい。コルトが語ったエレノア像を、調査の過程で勝手にふくらませて、妄想をたくましくしているようにも見える。読者がどれほど感情移入できるのかは、どれほどウェルズの妄想について行けるかにかかっている、と言っても過言ではないだろう。

 ピータースンがもたらす、この「妄想誘発→炸裂」効果がどんな事態を引き起こしたのか知りたければ、シリーズ最終作『裁きの街』解説を読んでみよう。シリーズの根幹を揺るがすような凄いことになっている。おじさんの妄想力をあなどってはいけない。

 この作品がこんなにもおじさんの妄想力を喚起するのは、やはりエレノアの描き方の巧さのなせる業だろう。彼女は小説には直接あらわれず、人の言葉や新聞記事を通してイメージが伝えられるのだが、これがさほど綿密に描かれているわけではない。だから、あれこれ想像する余地が出てくるのだ。

 最近の娯楽小説(特にアメリカ産)は重厚長大化が目立つ。スティーヴン・キングの影響だろうが、人物や事物をじっくりと描写しているものが多いように思う。そういう小説も悪くないが、こんなふうに「はっきり描かない」ことによって、主人公はもちろん読者の想像力をも引きずりだす小説は実に魅力的だ。

 丸見えよりも、見えそうで見えないほうがそそられるというのは、やはり真理なのだ。

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蒼茫の大地、滅ぶ

蒼茫の大地、滅ぶ / 西村寿行

東北地方を襲った驚異的なイナゴの群れは田畑をを食い荒らし、米の生産に致命的な打撃を与えた。娘を売った昭和初期の大凶作の記憶がよみがえる。なんら有効な対策を打たない政府に業を煮やした東北六県はついに日本国からの分離独立を決意するが、もちろん日本政府はそれを阻止しようと動き出す……。

 西村寿行と言えば、激しいエロスとバイオレンスが売りの作家、というイメージが強い。が、この作品ではそういう要素を抑え(もちろん皆無ではない)、米をめぐる地方-中央の対立が国家を揺るがす事態へと拡大してゆく様子をじっくりと描いている。また、動物を主役に据えた作品もいくつか書いている作者だけに、前半のイナゴの描写もなかなか凄絶である(この場面が凄絶でなければ後半が生きてこないのだから、当然といえば当然だが)。

 ここでクローズアップされるのは「叛逆」だ。実際、日本史を振り返ってみても、源義経から戊辰戦争の幕府軍まで、「反逆者」と見なされた者たちが北方(謙三ではない)に落ち延びる例は多い。そして作中では、執拗なまでに「中央による地方搾取」の図式が描かれる。「日本は単一民族なので云々」という画一幻想は打ち壊され、差異が強調される。東北からの難民に対する視線は、あっという間に差別意識を含んだものになる。

 さらに注目すべきは、本書を貫く、読むものを圧倒する「滅び」のヴィジョン。叛逆の物語にこのヴィジョンが重なることによって、勝者たちの作り上げた「表」の歴史に対置される、敗者たちの「裏」の歴史の存在が浮き彫りになる。

 船戸与一は『蝦夷地別件』で、江戸時代の北海道を舞台にアイヌの叛逆の物語を描いてみせたが、西村寿行はそれに先行していたと言えるだろう。

 ちなみに「滅び」といえば、同じ西村寿行作品に『滅びの笛』という、ネズミの大量発生に端を発するパニックものがある。こちらもおすすめ。

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ポラーノの広場

ハードボイルド・イーハトーブ*1

宮沢賢治/新潮文庫

 表題作を含む短編集。

 ミステリ者としてここで注目すべきはこの一編、「税務署長の冒険」だ。

 主人公は税務署長。物語は、彼が酒の密造防止を訴える講演をする場面から始まる。彼が講演をしているこの村、実は何者かが大がかりな密造をやっているようなのだが、尻尾がつかめない。署長は講演しながらも、きっと聴衆の中におれを笑っている奴がいる、と苛立つのだった。署長は部下に内偵を命じるが……という筋書き。

 この作品、実はアガサ・クリスティのある作品と同じトリックが使われている(本当)……なんてハッタリを持ち出さなくても、充分ミステリになりそうな話であることはおわかりいただけるだろう。もっとも連想するのは、クリスティみたいな謎解きよりも、禁制の品を扱うギャングたちが絡むハードボイルド(密造酒→禁酒法、といういささか安易な連想)。ただしこの作品、ハードボイルドでない面とハードボイルドな面との両方を持ちあわせている。

 まずハードボイルド的でないのは、探偵側の立場と姿勢。

 探偵側の職業が、税務署などという、おおよそ「庶民」のシンパシーを得づらいものである(だから、映画『マルサの女』なんかは脱税側を「より悪辣な奴」として描いている)。そして、「仕事だから」という単純な正義感で突き進む署長は、「上」から与えられた職務として、みずからの行為を疑うことはない。これにくらべ、逮捕されてなおしたたかな態度を崩さない密造者たちのほうが遥かに生き生きとして見える。そう、この物語の本来の主役は「犯罪者」であるはずの密造団なのだ。

 いっぽうハードボイルドを感じさせるのは、船戸与一的に帝国主義の断面を切り取ってみせるところ。

 たかだか田舎の脱税騒ぎに「帝国主義」ってのは大げさじゃないかって?

 そうかもしれない。

 だが、「酒への課税=国家管理」というのは、日本の戦前の体制におけるある側面を象徴するものなのだ。

 米から醸造した酒は、冠婚葬祭のさまざまな場面を思い出せば分かるとおり、単なるアルコール飲料ではない。きわめて儀礼的な飲み物なのだ。「御神酒」という表現もある。こういうものを国家管理のもとに置くというのは……言うまでもなく、神道の国家体制化と連動した現象である。つまり、民衆の側にあった祭祀行為の主導権を、国家の側に統合しようとする動きである。

 「税務署長の冒険」は、これに対する民衆のささやかな抵抗の物語とも言える。あるいは、歴史の表舞台に立つ者たちに対する、舞台から追いやられた者たちの叛逆──船戸与一言うところの「叛史」の一端なのかもしれない。

 ……実を言うと、ここまで書いておきながら、やっぱりこりゃ強引かもしれない、と思う気持ちもある。そこでは、この叛逆のモチーフをより意識的に描いた作家をとりあげることにしよう。

 西村寿行を。

*1 : 2008/01 全般に、いま見るとちょっと恥ずかしい。

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マンチェスター・フラッシュバック

投げ捨てた過去に向かい合う

マンチェスター・フラッシュバック ニコラス・ブリンコウ / 玉木亨訳 / 文春文庫

 それなりの年月を生きていれば、忘れてしまいたい過去のひとつやふたつはあるだろう。それがあまりにも重ければ、投げ出して逃げ出してもおかしくない。これは、そんな男の物語だ。逃げたけれど逃げ切れず、追いかけてくる過去と向き合う男の物語だ。

 男がマンチェスターの街を捨ててから15年。今ではロンドンでカジノの支配人になっていた。そこへ訪れた、かつて浅からぬ因縁があった刑事が告げる。昔の仲間が殺された。その手口に、男は15年前のあの事件を思い出す。かくして男は捨てたはずのマンチェスターへ、自分の過去へと舞い戻る……。

 15年前と今のマンチェスターを交互に描きながら、過去と現在の二つの殺人事件の真相をゆっくりと浮かび上がらせる。

 かつての主人公はドラッグ欲しさに体を売る男娼だった。彼自身は同性愛者ではないが、登場人物には同性愛の嗜好者が多い。物語を織り成す縦糸が殺人事件をめぐる物語とするならば、横糸は彼らの風俗描写だ。

 保守的な警察幹部には目の敵にされる彼らは、もちろん社会のアウトサイダー。社会を見上げるその視線は、ハードボイルドにも通じるものがある。それも、チャンドラーが描いたような「卑しい街を行く孤高の騎士」なんぞの夢物語ではない。「卑しい街を生きる薄汚れた男たち」の物語だ。過去に向かい合う男の探索行には、郷愁と冷徹さが同居している。

 おぼろげな過去が徐々に読者に明らかにされるという点では、本書はトマス・H・クックの『緋色の記憶』に始まる一連の作品、あるいは天童荒太の『永遠の仔』などの系譜に連なる。前者は私の好みではないが、きわめて技巧にすぐれた作家であり、後者はベストセラーにもなったのでご存知の方も多いだろう。

 過去とどのように対峙するか、という主人公の姿勢について言えば、私は本書の主人公にもっとも好感をおぼえる。

 全般に、少々あっさりしているところが好ましくもあり、また弱みでもある。特に主人公と因縁のある刑事(これはなかなか印象に残る人物。著者のほかの作品にも登場するらしい)以外の警官たちについては、もっと書き込まれていてもいいのではないかと思う。とはいえ、まずまず面白く読める作品ではある。主人公の過去に対する姿勢も、クライマックスではなかなかいい形をとっていて、こういうジャンルでは新鮮に感じた。

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