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消えた女

都会の闇が浮かび上がる大江戸ハードボイルド

藤沢周平 / 新潮文庫

 しがない版木の彫師・伊之助は、かつては凄腕の岡っ引きだった。だが、女房が男と心中して以来、浮かない日々を過ごしていた。だが、弥八親分の娘が失踪したと聞き、彼は重い腰を上げて、江戸の町にその行方を追うことになる……。

 時代小説作家・藤沢周平は一方で海外ハードボイルドの愛読者でもあったようで、この作品にはそんな作者の嗜好が如実に反映されている。

 いわくつきの過去を背負った元岡っ引きという伊之助のプロフィールは、60年代以降のアメリカ私立探偵小説に描かれる典型的な主人公像(一般市民を巻き添えにしてしまった元刑事など)と重なり合う。例えば、本書で伊之助はほかの岡っ引きから「もう一度十手を持たないか」と誘われるが、その姿はローレンス・ブロック描く元刑事のアル中探偵マット・スカダーが、ニューヨーク市警の刑事に「あんたは今もお巡りなんだよ」と復職を薦められる場面に符合する。

 そして作中に描かれる事件もまた、きわめて私立探偵小説的である。

 謎解きミステリの代表的な事件を「密室殺人」とするならば、私立探偵小説のそれは「失踪」だ。ブラックホールに飲み込まれたかのように、身近な人物が姿を消す。依頼を受けた私立探偵がその行方を追ううちに、失踪者が姿を消さざるをえなくなった事情が浮かび上がる。それはたいていの場合、社会が抱えるさまざまな問題に結びついている。失踪者を飲み込むブラックホールは、社会のひずみから生み出されるのだ。

 ほとんどの私立探偵小説が都会を描いているのは、その舞台としてそれなりに規模の大きな社会が必要だからだ。失踪者を飲み込んでしまえるくらいに大きく、複雑化した社会が。その点、当時世界有数の大都市だった江戸には、十分「失踪」の舞台になる資格が備わっている。

 ハードボイルドとはジャンルと言うよりは作品のスタイルだ。主人公はどこか社会体制に順応しきれない人物で、時には正真正銘のアウトローのこともある。その社会へのまなざしは、決して上から見下ろすものではなく、下から見上げる性質のものだ。

 本書が、江戸を舞台にしながらもなぜかアメリカの私立探偵小説を連想させるのは、作者がそういったハードボイルドの核を捉えていたからだろう。

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