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Bookstack

2004/05/05(水)

日常

あるところでデイヴィッド・ピースが

「デビピ」と略されているのを見て、ひっくり返りそうになった。

http://www.hayakawa-online.co.jp/noir/noir5.html

で、馳星周と握手してるのが問題のデビピだ。でびぴ。でびぴぴぴー。

 ちなみにロス・マクドナルドは「ロスマク」と略されることがあるが、この背景には日本の特殊な事情──みなさんもご存じの「マクドナルド短縮問題」が絡んでいる。

 日本のような同質性の強い社会では、きわめて小さな差異が、時として暴力を伴う激しい対立のきっかけになりかねない。過激派のいわゆる「内ゲバ」はその一例だ。ファストフード店の呼称のような些末な問題も、日本では地域対立の火種になりかねない。対立する2派──全国的な展開を図るマック派と、近畿地方を中心に熱烈な支持層を獲得しているマクド派の確執は根が深く、和平への道のりは遠く険しい。今の日本は、自衛隊を海外に派遣している場合ではないのかもしれない。

 このデリケートな問題が、ロス・マクドナルドの短縮形を規定した──「マクドナルド」の一部分にファーストネームの「ロス」をつけて「ロスマク」。ハマコーやキムタクと同じ、日本人になじみやすいカナ四文字分の短縮形である。

 短縮形を制定した人々の知恵が結晶したのが、後半の「マク」である。濁音を排除するマック派の教理に合致するだけでなく、マクド派が神聖視する文字列抽出条件「左からn文字をそのまま用いる」をも同時に満たしているのだ。これは、新村出による「広辞苑」の序文(正かなづかいと新かなづかいの両方に合致)以来の偉業ではないだろうか。

 もちろん、これはマクドナルド短縮問題そのものの解決を意味しない。問題を先送りしただけの日本的な方策だ、といってしまえばそれまでだ。だが、ハードボイルドという分野が、政治的な闘争で疲弊することを防いだ先人の叡知には、一定の評価が与えられてしかるべきだろう。これが「ロスマック」や「ロスマクド」だったら、今ごろ日本はどうなっていたことか、想像するだけでも背筋が冷たくなる。

 また、こういう特殊な事情が生んだ短縮方法なので、他の作家に適用するには注意が必要だ。例えば、マックス・アラン・コリンズをマッコリと呼ぶのは慎むべきだろう。たとえマッコリが美味であったとしても。また、アントニー・バークリーをアンバクと略すのも好ましくない。アンドリュー・ヴァクスと誤認する危険がある。ロジャー・シェリンガムは前科27犯のアウトロー探偵ではないのだ。

 ……と妄想を書き連ねるのはそろそろ止めておこう。それはともかく「ブラピ」とか「デビピ」みたいな縮め方はどうも馴染めない。AdobeのIllustratorが「イラレ」になったり、Powerpointが「パワポ」になったりするのも苦手。だいたい「ぱわぽ」なんて、「だめぽ」とか「ぬるぽ」みたいではないか。

2004/05/04(火)

日常

ミステリマガジンの書評など。

デイヴィッド・ダン『鷲の眼』は2003年の作品で、悪役はフランス企業。時流に乗った結果、なのだろうか。アメリカ企業でも差し障りなさそうな気がするのだが(ちなみに構成が雑なので、あまりオススメしません)。

18世紀ヨーロッパが舞台の『迷宮の舞踏会』はじっくり読みたい小説。一ヶ月くらい新刊のことなんてまったく気にしないで、こういう濃厚な本をずーっと読んでられたら、なかなか幸せな気分が味わえそうだ。

2004/05/03(月)

日常

小説すばる新人賞の下読み。

こういう新人賞の応募原稿については「下読みの鉄人」(http://www.sky.sannet.ne.jp/shitayomi/)という優れたサイトがあるので、今さら私が何か言うことなんてない。

……と言いつつ書いてしまうのだが、原稿を印刷する時に、体裁には気を配るに越したことはない、と思う。

今回いちばん読み辛かったのが、原稿用紙の升目に合わせて20字×20行で印刷された原稿だった。文章自体は普通なのに、体裁が体裁なので字面を追うだけでかなり疲れてしまった。

字面を追うだけで消耗してしまうと、いいところがあっても見落としてしまうことだってあるかもしれない。そうなってしまっては実にもったいない。

2004/05/02(日)

日常

ちょっとしたイベント完了。

私信:久々に文集を作りたい、という人はいますか? > その方面の方々

死を呼ぶペルシュロン

ミステリ
ASIN:479492741Xジョン・フランクリン・バーディン / 晶文社

……なんですかこれは。

 困ってしまった。人の話をジョークだと思って笑ったら、実は相手が真剣だったときのような気まずさを感じた。

 すさまじく狂った話なのに、ちゃんと推理小説という枠組みにおさまっている。だから居心地が悪い。島田荘司が大風呂敷をたたみ損ねたときのような居心地の悪さ、といえばいいだろうか。

 じゃあ失敗作なのか? 確かに、前半あれだけ巧みに不安を煽り立てておきながら、最後の謎解きは辻褄あわせに終始して、後半はごちゃごちゃした展開になっている。そういう意味では失敗作だ。

 でもこれは、小奇麗にまとまっているだけが取り柄の小説なんかと違って、忘れてしまうのは難しい。いわゆる普通のミステリから微妙にずれた、いびつな小説。「よくできている」とは言いづらいけれど、異質であるがゆえの魅力を備えた作品だ。もしかしたらバーディンが書いていたのは「ミステリ」じゃなくて、「ぼくの考えたミステリ」だったんじゃないだろうか。

 最近のものだと、デイヴィッド・アンブローズの『迷宮の暗殺者』もずいぶん変てこな話ではある。けど、俺たちのデイヴは「変な話を書くぜ!」と自覚していて、「変なポイント」をアピールするタイミングを計算している。デイヴと俺たちとの間には共通の認識ができている(当人に確かめたわけじゃないけど、俺たちには判るぜ!)。

 でもバーディンは違う。異質さを無自覚に垂れ流している。この人、自分がとてつもなく奇妙な作品を書いちゃったことに気づいていたのだろうか? 「どうして自分の作品だけキワモノ扱いされるんだろう」なんて悩んでいたんじゃないだろうか?

 第三作『悪魔に食われろ青尾蝿』を書いた後のバーディンは、もっとありきたりな推理小説を書くようになった。ミステリと言うものをちゃんと理解したのかもしれない。けれど、それらは今ではほとんど評価されていないらしい。

 バーディンは「ミステリ」と「ぼくの考えたミステリ」の溝を埋めてしまったのだろうか? だとしたら──少なくともミステリ読者にとっては、大きな損失だった。