【ノワール】
チャールズ・ウィルフォード / 扶桑社ミステリー
野心あふれる若手美術評論家フィゲラスは、ある画家の取材をするチャンスを与えられた。ジャック・ドゥビエリュー。現代美術史の最重要人物でありながら、作品は火災で失われ、その後は沈黙を守っている幻の画家。彼に会うだけでも、フィゲラスの評論家としてのキャリアに大きな得点になる。だが、うまい話には落とし穴がつきもの。取材には、ある条件が付けられていたのだ……
全編フィゲラスの一人称。自意識過剰で嫌味にあふれた語り口が実に「おじょーひん」で、小説の語り手としては非常にすばらしい(身近にいたら不快だが)。この口調で延々と日常生活を語って、そのまま終わっても一向に差し支えないくらいだ(隣にいたら殴るけど)。
そしてもちろん、画家ドゥビエリューを忘れちゃいけない。その作品を鑑賞する機会が失われてしまったが故に美術史上きわめて重要な存在になったという、まるでチェスタトンが繰り出す逆説のような経歴の持ち主である。その言動にもシュールレアリストらしさが漂い、フィゲラスを翻弄する場面での悠然とした態度が印象に残る。
最後の最後まで、先の読めない展開に翻弄される小説だ。翻弄されるのがこの本を楽しむうえでの大事なところなので、展開については触れないでおこう。
ところでこの小説、ある種の批評としても楽しめる。もちろんドゥビエリューは架空の人物なので、レムの『完全な真空』や『虚数』、あるいはボルヘス&ビオイ・カサーレスの『ブストス・ドメックのクロニクル』(いま気づいたがどれも国書刊行会の本だ)のような、「架空の対象に対する批評」という趣向だ。
存在しない作品の批評。それはフィゲラスの口からも語られるけれど、フィゲラスの思惑を抜きにした物語の全体像が、ひとつのシュールレアリスム論になっているように見える。
また、この小説に描かれる、評者とその対象の関係も興味深く、いろいろと考えさせられるところがあった。
たとえば、印象深かったのはこんな台詞だ。
野心あふれる若手美術評論家フィゲラスは、ある画家の取材をするチャンスを与えられた。ジャック・ドゥビエリュー。現代美術史の最重要人物でありながら、作品は火災で失われ、その後は沈黙を守っている幻の画家。彼に会うだけでも、フィゲラスの評論家としてのキャリアに大きな得点になる。だが、うまい話には落とし穴がつきもの。取材には、ある条件が付けられていたのだ……
全編フィゲラスの一人称。自意識過剰で嫌味にあふれた語り口が実に「おじょーひん」で、小説の語り手としては非常にすばらしい(身近にいたら不快だが)。この口調で延々と日常生活を語って、そのまま終わっても一向に差し支えないくらいだ(隣にいたら殴るけど)。
そしてもちろん、画家ドゥビエリューを忘れちゃいけない。その作品を鑑賞する機会が失われてしまったが故に美術史上きわめて重要な存在になったという、まるでチェスタトンが繰り出す逆説のような経歴の持ち主である。その言動にもシュールレアリストらしさが漂い、フィゲラスを翻弄する場面での悠然とした態度が印象に残る。
最後の最後まで、先の読めない展開に翻弄される小説だ。翻弄されるのがこの本を楽しむうえでの大事なところなので、展開については触れないでおこう。
ところでこの小説、ある種の批評としても楽しめる。もちろんドゥビエリューは架空の人物なので、レムの『完全な真空』や『虚数』、あるいはボルヘス&ビオイ・カサーレスの『ブストス・ドメックのクロニクル』(いま気づいたがどれも国書刊行会の本だ)のような、「架空の対象に対する批評」という趣向だ。
存在しない作品の批評。それはフィゲラスの口からも語られるけれど、フィゲラスの思惑を抜きにした物語の全体像が、ひとつのシュールレアリスム論になっているように見える。
また、この小説に描かれる、評者とその対象の関係も興味深く、いろいろと考えさせられるところがあった。
たとえば、印象深かったのはこんな台詞だ。
じゃ何がわかってるのかというと、ドゥビエリューがアメリカで描いた絵を見る最初の批評家になろうと俺が決意したこと、〈アメリカ期〉という呼称もすでに決めていること、ただそれだけだ! (p.109-110)まだ何も見ていないというのに、すでに呼称まで決めている。フィゲラスの批評の枠組みにドゥビエリューをどう位置づけるのかも、すでに決まっているのだろう。もちろん、純粋に客観的になれる人間なんていないのだから、多かれ少なかれフィゲラスみたいな傾向は生じるのだけれど……。