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Bookstack

2002/07/24(水)

日常

職場のひとこま

課長がうちの部署のひとになにやら仕事の話をしている。仕事の内容が内容なので「Solaris」とか「HTML」といった単語が聞こえてくるのは分かるのだが、なぜか「北海道の開拓」という言葉が聞こえてくる。

しかも土地の開墾がどうとか言ってるし。

……『地の果ての獄』(山田風太郎)ですか。

ある意味、彼の仕事の大変さには『地の果ての獄』という言葉が合いそうだが。

2002/07/23(火)

日常

YukiWiki2を導入。

※2005/12/25追記:2002~2004年は日記めいた内容もYukiWikiを使って書いていた。現在はご覧のとおりtDiaryに以降。

ミスターX

ホラー
上下ピーター・ストラウブ / 創元推理文庫

クトゥルー神話への言及もあるけれど、基本的には自分のルーツを探す青年の物語。そこに、派手な超自然現象が彩りを添える。

主人公の印象はいまひとつ薄かったりするけど、彼を取り巻く人物の描写は実にあざやかだ。特に主人公の叔母たちの不良老人ぶりは素晴らしい。モンティ・パイソンのネタにあった、ヘルズ・エンジェルスもビビってしまう不良婆さんグループなんてのを思い出した。

悪役は印象がやたらと薄いんだよなあ。せっかくのクトゥルーネタを体現するキャラクターなのに。

最終章

ISBN:4150017158スティーヴン・グリーンリーフ / ハヤカワ・ポケットミステリ

 このサイトの更新頻度からも分かるように、ひとつのことをこつこつと続けるのが苦手だ。だから、シリーズものを通して読みつづけることもめったにない。
 グリーンリーフ描く私立探偵タナーの物語は、その数少ない例外だ。

 どうしてだろう?

 プロット作りが優れているから? たしかにグリーンリーフの話作りはうまい。でもそれだけじゃない。
 このシリーズを飽きることなく読み続けられたのは、グリーンリーフがグリーンリーフであり続けたから--枯葉にならなかったからだ。

 第一作「致命傷」は、ロス・マクドナルドが作り上げた私立探偵小説のフォーマットに忠実な小説だった。このころからプロットは精緻だったが、あまりにも基本に忠実である、というところがかえって作品の印象を弱めていた。

 それはグリーンリーフ自身も気づいていたのだろう。彼の私立探偵小説というジャンルへの認識は、やがて「探偵の帰郷」からのいくつかの作品で、私立探偵小説への自己言及のような形で実現される。そして、作品のプロットも「ジャンルのお約束」に縛られないものになってゆく。

 シリーズで最も有名なのは「匿名原稿」だが、これなんかは私立探偵小説以外のジャンルのお約束にもとづいて書かれた私立探偵小説と言ってもいいだろう。以降の作品も、ジャンルの定型から踏み出しながら、しかし私立探偵小説としか呼びようのないものになっている。

 最終章なんて題名につられて、ついついシリーズをまとめてしまうようなことばかり書いたけど、もちろんこれはグリーンリーフの最終章なんかじゃないはずだ。

死ぬほどいい女

ノワール
ISBN:4594034667 ジム・トンプスン / 扶桑社

 トンプスンの小説を読むのは不快な経験だ。

 犯罪小説ではあるが、そこに描かれる犯罪計画は行き当たりばったりだし、たいした事件がおきるわけでもない。そもそも事件のスケールがしょぼい。登場人物の語り口は、読むものをむやみに不安にさせる。

 主人公のディロンは訪問販売のセールスマン。強欲な老婆が住む家に立ち寄った彼は、そこで彼女の姪のモナに出会う。老婆に売春まがいの行為を強いられていた彼女に惹かれるディロンは、やがてある計画を思いつく……。

 と、あらすじを紹介しても意味がない。表層での事件の動きよりも大事なのは、主人公が事件にどのように対峙したか──いや、どのように対峙を拒んだか。

 トンプスンの主人公たちは、世界のなかに自分を都合よく位置づけて解釈している。だから彼らは、おれは○○なやつなんだ、と繰り返す。妻を殴り売上金をごまかすディロンも、おれは不運なだけの正直で紳士的な男だと訴える。

 彼らは現実を認識できないのではない。認識しながらそれを拒み、都合のよい妄想にすりかえているのだ。「こうあってほしい」自分と現実の自分。そのふたつの意識の落差から、主人公の語りと語られる事件との間には不協和音が生まれる。ページが進むにつれて落差は広がり、違和感は膨れあがる。

 膨れあがった違和感は、終盤にいたって物語を破綻させる。ディロンが作り上げたふたつの意識の落差から、どす黒いものが目に見える形で噴出する。「行間を読む」という言葉があるが、ここでは行間を読むまでもない。それは目に見える形でそこにある。「清く正しいおれさま」というファンタジーが破れた穴の向こうには、シュールな地獄絵図が広がっている。

 ふたつの認識の乖離を「狂気」と言ってしまうのはたやすい。だが、それは狂気なのか? 確かに小説の中では誇張されているが、それは多かれ少なかれ「おれたちみんな」の心に巣食っているのではないか? トンプスンは否応なしにそのことを読者に突きつけてしまう。

 トンプスンの小説を読むのは不快な経験だ。
 だから、トンプスンを読むのはやめられない。