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死ぬほどいい女

ノワール
ISBN:4594034667 ジム・トンプスン / 扶桑社

 トンプスンの小説を読むのは不快な経験だ。

 犯罪小説ではあるが、そこに描かれる犯罪計画は行き当たりばったりだし、たいした事件がおきるわけでもない。そもそも事件のスケールがしょぼい。登場人物の語り口は、読むものをむやみに不安にさせる。

 主人公のディロンは訪問販売のセールスマン。強欲な老婆が住む家に立ち寄った彼は、そこで彼女の姪のモナに出会う。老婆に売春まがいの行為を強いられていた彼女に惹かれるディロンは、やがてある計画を思いつく……。

 と、あらすじを紹介しても意味がない。表層での事件の動きよりも大事なのは、主人公が事件にどのように対峙したか──いや、どのように対峙を拒んだか。

 トンプスンの主人公たちは、世界のなかに自分を都合よく位置づけて解釈している。だから彼らは、おれは○○なやつなんだ、と繰り返す。妻を殴り売上金をごまかすディロンも、おれは不運なだけの正直で紳士的な男だと訴える。

 彼らは現実を認識できないのではない。認識しながらそれを拒み、都合のよい妄想にすりかえているのだ。「こうあってほしい」自分と現実の自分。そのふたつの意識の落差から、主人公の語りと語られる事件との間には不協和音が生まれる。ページが進むにつれて落差は広がり、違和感は膨れあがる。

 膨れあがった違和感は、終盤にいたって物語を破綻させる。ディロンが作り上げたふたつの意識の落差から、どす黒いものが目に見える形で噴出する。「行間を読む」という言葉があるが、ここでは行間を読むまでもない。それは目に見える形でそこにある。「清く正しいおれさま」というファンタジーが破れた穴の向こうには、シュールな地獄絵図が広がっている。

 ふたつの認識の乖離を「狂気」と言ってしまうのはたやすい。だが、それは狂気なのか? 確かに小説の中では誇張されているが、それは多かれ少なかれ「おれたちみんな」の心に巣食っているのではないか? トンプスンは否応なしにそのことを読者に突きつけてしまう。

 トンプスンの小説を読むのは不快な経験だ。
 だから、トンプスンを読むのはやめられない。

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