▼ けだもの
【ノワール】
ジョン・スキップ&クレイグ・スペクター / 文春文庫 (解説)
これは人狼による血みどろの殺戮劇を描くホラーだ。
激しい情念がからみ合う恋愛小説だ。
登場人物が自己の内なる獣性と対峙する暗黒小説【ノワール】だ。
この作品のスタイルはスプラッタパンクと呼ばれる。スプラッタパンク=血まみれ映画【スプラッタ】+爆走音楽【パンク】。八〇年代アメリカに出現した、若手ホラー作家が中心の、世間の良識に楯突くようなムーブメントだ。彼らの作品はスプラッタ映画やB級SF映画、そしてロックからの影響が強く、またどぎついエロス&バイオレンス描写で飾りたてられている。ヤバさに満ちたそのスタイルは、お上品な「良識派」の嫌悪と軽蔑に満ちたまなざしを一身に浴びる。古典的な怪奇小説を端整なクラシック音楽とするならば、これは狂騒のヘヴィ・メタル。首から上よりも、腰から下を刺激するようなしろものだ。
スプラッタパンクは、古典的な怪奇小説と異なり、未知のなにかに対する恐れの感覚を醸し出すことを重視していない。むしろ、スプラッタ映画風の暴力やセックスに象徴されるような、皮膚感覚の恐怖を描くことに力を入れている。
『けだもの』にも、スプラッタパンクにつきものと言っていいエロスとバイオレンスが盛り込まれている。だが、決して扇情的なだけの小説ではない。暴力もセックスも、この物語にとっては必要にして欠かすことのできない要素なのだ。
物語の開幕からまもなく、離婚の成立を知らされたシドは別れた妻のことをあれこれ思い出して悲嘆に暮れる。その心理を綿々と綴る文章からうかがえるのは、これは恋愛小説にほかならない、ということだ。シドとノーラとヴィクの三角関係が提示されてからは、恋愛小説としての側面はさらに明確になる。内省的な人物であるシドの心理描写が目立つが、ノーラやヴィクの心の動きもじっくり描かれている。それは読者に物語への没入をうながし、登場人物たちの感情の高まりを疑似体験させる。
激情は肉体を動かす。セクシャルな場面が頻繁に描かれるのは、激しい感情がストレートに行動に結びついているからだ。また、男女がベッドで(あるいはそれ以外のところで)繰り広げる行為の子細も、人物描写の重要な部分を占めている。たとえば執拗なまでに避妊を拒むノーラの行動の背後にあるのは、彼女が抱えている心の重荷だ。また別の場面では、生殖とは無縁なヴィクの暴力的な性行為が、重荷を抱えたノーラの心を致命的に深く切り裂いてしまったことが示される。
セックスだけではない。本書の殺戮シーンもまた、男女の愛憎と深く結びついている。登場人物たちは何度か野獣の姿に変身して人々を殺す。しかし、犠牲者の命を奪う瞬間が直接描かれる場合と、そうでない場合とがある。殺す瞬間が読者の目の前に提示されるのは、殺戮の動機が、嫉妬や復讐といった愛する者をめぐる感情にある場合に限られる。逆に、生活のための「狩り」などの場合は、殺しの瞬間が直接描かれることはまずない。せいぜいその死体が示される程度(それだけでも十分に凄惨だが)、あるいは犠牲者から奪った品々に言及するくらいだ。つまり、この小説に描かれる暴力のほとんどは、極端な形での愛憎の表現であり、セックスと隣り合わせの行為である。
登場人物がふるう暴力もまた、この作品の重要なテーマだ。作中の一部の男女は、常にひとつの問いを突きつけられている。
自分の中のけだもの=暴力衝動と、どのようにつき合うか?
この問いは「狼への変身」との対峙という形で提示される。ある者はけだものを解き放ち、衝動のままに人を狩って生きてゆく。ある者は自己のルールを定め、そのルールのもとにけだものを律しながら生きてゆく。
この作品における人狼とは、外部からの感染というよりは、むしろ内面からの覚醒にもとづく存在として描かれている。作中、登場人物がいくつもの映画を見て物足りなさを感じる場面があるが、そこで狼男映画と並んで名前の挙がる作品に、なぜか狼とは無縁な『ザ・フライ』や『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』が含まれているのは象徴的だ。『ザ・フライ』の物語は、新しい発明品の実験時に起きた事故によって、身体がハエと融合してしまった科学者の悲劇である。それは「自分が自分でないものに変わってしまう」というアイデンティティの侵蝕だ。だが、本書での狼への変身とは、自分の暴力衝動が肉体に顕現する、いわば極端な形での激情の噴出なのだ。そしてその暴力衝動は、『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』に描かれるような無意識の奥底に潜んでいるものではなく、もっと明確に意識されているものだ。
このような、自分の中の暴力衝動に向き合う恐怖についてノーラは言う。
このような暴力衝動の扱いは、ジム・トンプスンやジェイムズ・エルロイ、あるいは馳星周といった作家たちの作品に通じる。「暗黒小説」と呼ばれるこれらの小説は、犯罪について語ることで暴力を描いている。スプラッタパンクが、超自然現象などを通して暴力を描いているように。また、多くのミステリーが被害者や捜査側の眼で事件を追うのに対し、暗黒小説はしばしば犯罪者の視点から描かれる。
たとえば、『けだもの』という題名がほのめかす獣性=暴力衝動を、さらにストレートな形で題名に表現した小説がある。ジム・トンプスンの『内なる殺人者』(河出文庫)だ(2008/01追記:2005/06に三川基好による新訳が刊行された)。心に歪みを抱えた保安官補の一人称で語られる、私的な復讐をきっかけにくり返される殺人の物語。彼の精神には気さくな保安官補と殺人狂が境界なしに同居する。それは「向こう側」の怪物めいた「狂気」ではない。彼の行動は異様ではあるが、不自然なところはない。トンプスンの描くしたたかな異常さは、「こちら側」の我々にも説得力を持っている。加害者の視点に立った、暴力衝動が暴発するまでの心理描写が読者を震撼させる。
スプラッタパンクというスタイルは、加害者からの視点による恐怖を描くことを容易にした。典型的なホラーが、恐怖現象の受け手の心理を重視するのに対し、スプラッタパンクは即物的な血まみれの暴力描写に力を入れる。主観的な心理よりも、客観視可能な肉体。それゆえに、被害者の視点にこだわる必然性は薄れたのだ。
そして、暴力衝動を恐怖として描くだけでなく、誘惑として描くところもまた暗黒小説を思わせる。シドはノーラと関わり合ううちに、彼女の心に巣食う暴力嗜好に気づきながらもその世界に搦め取られてゆく。これまでに築いた日常を、友人を、社会のルールを捨ててもなお、シドを駆り立てる衝動。周囲からは堕落としか見えないだろうが、彼が感じるのは幸せな解放感だ。健全さを持ち合わせた人物として登場するシドが、どこまでノーラの「暗黒」に沈んでいくのか。それは本書のテーマのひとつでもある。
シドよりはるかに暗黒小説的なのが、ヴィクとノーラだ。二人とも、暴力を称揚し、嬉々として人を狩る。法律など何とも思わないアウトローで、弱肉強食という原理を信じている。
特にヴィクは裏の主人公とでも言うべき人物だ。ストーリーを動かす存在であり、積極的に行動して物事のイニシアチブを握ろうとするタイプだが、ノーラを憎みながら愛し、彼女から離れられずに堕ちてゆく破滅的な男でもある。いわば、暗黒小説に登場する主人公の典型なのだ。
一方のノーラは、初登場の場面で映画『ギルダ』のヒロインにたとえられる。『ギルダ』をはじめとする、四〇~五〇年代に作られた「フィルム・ノワール」と呼ばれる一連の映画は、テーマやスタイルの面で暗黒小説と深く結びついている。奔放なふるまいで男たちの心をかき乱すところを除けば、ノーラの人物像は映画のギルダとはさほど似ていないのだが、彼女がフィルム・ノワールや暗黒小説につきものの「運命の女【ファム・ファタール】」であることは明白だ。暴力の翳を帯びた危険な魅力の持ち主であり、男たちを翻弄する存在である。
本書は、シドの性格づけのおかげで典型的なアメリカ産娯楽小説となりおおせている。だが、もしもこの物語をヴィクとノーラの──特にヴィクの視点から描いたならば、まぎれもない暗黒小説になっていたに違いない。
さて、この物語を創った男たちのほかの作品についても記しておこう。残念なことに、そのほとんどが未訳だ。
ジョン・スキップ(一九五七年生まれ)とクレイグ・スペクター(一九五八年生まれ)は学生時代に出会い、映画関係のライターをしながら短編でデビューした。
二人の合作になる長編は、以下の六作がある。
“The Light at The End”(86)では、ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる。(2003年追記:その後『闇の果ての光』として文春文庫から邦訳が出た)
“Cleanup”(87)では、ひとりの青年が「天使」のお告げを聞き、汚れた街の浄化に乗り出す。
彼らの音楽の嗜好が垣間見える“The Scream”(88)では、悪魔的なヘヴィ・メタル・バンドが描かれる。
それまでに発表した短編をまとめて長編に仕立てたのが“Dead Lines”(89)。ちなみに、この作品の一部となった短編「男になれ」(Gentlemen,87)は、「SFマガジン」九〇年五月号に訳出されている。
“The Bridge”(91)は環境問題をテーマにした破滅もの。
そして本書、『けだもの』(Animals,93)。
なお、このほかに映画『フライトナイト』のノベライゼーション(86、講談社X文庫)がある。
二人は『けだもの』を最後にコンビを解消し、以後はそれぞれがアンソロジーなどに個別に短編を発表している。
また、ジョージ・A・ロメロに捧げられたゾンビ小説アンソロジー『死霊たちの宴』(89、邦訳98、上下巻、創元推理文庫)および続編“Books of The Dead 2:Still Dead”(91)の編者でもある。
このほか、映画『エルム街の悪夢5ザ・ドリームチャイルド』(89)の脚本にも関わっている。映画ということで付け加えておくと、二人は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のカラー版リメイク(90)やクライブ・バーカー監督の『ミディアン』(90)で、エキストラとしてゾンビを演じた。
「パンク」と名のつくムーブメントの定石どおり、運動としてのスプラッタパンクは今はもう沈静化している。だが、良質な作品は運動の盛り上がりとは関係なく読まれてしかるべきだろう。すでにコンビを解消している二人だが、長編の邦訳はノベライゼーションを除けば本書が初めてである。これから彼らの他の作品、あるいは他の作家たちの代表作の紹介が進むことを期待しよう。
まずは、激情に満ちたこの作品を存分に楽しんでいただきたい。
ただし……内なるけだものを解き放たないように、くれぐれもご注意を。
これは人狼による血みどろの殺戮劇を描くホラーだ。
激しい情念がからみ合う恋愛小説だ。
登場人物が自己の内なる獣性と対峙する暗黒小説【ノワール】だ。
この作品のスタイルはスプラッタパンクと呼ばれる。スプラッタパンク=血まみれ映画【スプラッタ】+爆走音楽【パンク】。八〇年代アメリカに出現した、若手ホラー作家が中心の、世間の良識に楯突くようなムーブメントだ。彼らの作品はスプラッタ映画やB級SF映画、そしてロックからの影響が強く、またどぎついエロス&バイオレンス描写で飾りたてられている。ヤバさに満ちたそのスタイルは、お上品な「良識派」の嫌悪と軽蔑に満ちたまなざしを一身に浴びる。古典的な怪奇小説を端整なクラシック音楽とするならば、これは狂騒のヘヴィ・メタル。首から上よりも、腰から下を刺激するようなしろものだ。
スプラッタパンクは、古典的な怪奇小説と異なり、未知のなにかに対する恐れの感覚を醸し出すことを重視していない。むしろ、スプラッタ映画風の暴力やセックスに象徴されるような、皮膚感覚の恐怖を描くことに力を入れている。
『けだもの』にも、スプラッタパンクにつきものと言っていいエロスとバイオレンスが盛り込まれている。だが、決して扇情的なだけの小説ではない。暴力もセックスも、この物語にとっては必要にして欠かすことのできない要素なのだ。
物語の開幕からまもなく、離婚の成立を知らされたシドは別れた妻のことをあれこれ思い出して悲嘆に暮れる。その心理を綿々と綴る文章からうかがえるのは、これは恋愛小説にほかならない、ということだ。シドとノーラとヴィクの三角関係が提示されてからは、恋愛小説としての側面はさらに明確になる。内省的な人物であるシドの心理描写が目立つが、ノーラやヴィクの心の動きもじっくり描かれている。それは読者に物語への没入をうながし、登場人物たちの感情の高まりを疑似体験させる。
激情は肉体を動かす。セクシャルな場面が頻繁に描かれるのは、激しい感情がストレートに行動に結びついているからだ。また、男女がベッドで(あるいはそれ以外のところで)繰り広げる行為の子細も、人物描写の重要な部分を占めている。たとえば執拗なまでに避妊を拒むノーラの行動の背後にあるのは、彼女が抱えている心の重荷だ。また別の場面では、生殖とは無縁なヴィクの暴力的な性行為が、重荷を抱えたノーラの心を致命的に深く切り裂いてしまったことが示される。
セックスだけではない。本書の殺戮シーンもまた、男女の愛憎と深く結びついている。登場人物たちは何度か野獣の姿に変身して人々を殺す。しかし、犠牲者の命を奪う瞬間が直接描かれる場合と、そうでない場合とがある。殺す瞬間が読者の目の前に提示されるのは、殺戮の動機が、嫉妬や復讐といった愛する者をめぐる感情にある場合に限られる。逆に、生活のための「狩り」などの場合は、殺しの瞬間が直接描かれることはまずない。せいぜいその死体が示される程度(それだけでも十分に凄惨だが)、あるいは犠牲者から奪った品々に言及するくらいだ。つまり、この小説に描かれる暴力のほとんどは、極端な形での愛憎の表現であり、セックスと隣り合わせの行為である。
登場人物がふるう暴力もまた、この作品の重要なテーマだ。作中の一部の男女は、常にひとつの問いを突きつけられている。
自分の中のけだもの=暴力衝動と、どのようにつき合うか?
この問いは「狼への変身」との対峙という形で提示される。ある者はけだものを解き放ち、衝動のままに人を狩って生きてゆく。ある者は自己のルールを定め、そのルールのもとにけだものを律しながら生きてゆく。
この作品における人狼とは、外部からの感染というよりは、むしろ内面からの覚醒にもとづく存在として描かれている。作中、登場人物がいくつもの映画を見て物足りなさを感じる場面があるが、そこで狼男映画と並んで名前の挙がる作品に、なぜか狼とは無縁な『ザ・フライ』や『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』が含まれているのは象徴的だ。『ザ・フライ』の物語は、新しい発明品の実験時に起きた事故によって、身体がハエと融合してしまった科学者の悲劇である。それは「自分が自分でないものに変わってしまう」というアイデンティティの侵蝕だ。だが、本書での狼への変身とは、自分の暴力衝動が肉体に顕現する、いわば極端な形での激情の噴出なのだ。そしてその暴力衝動は、『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』に描かれるような無意識の奥底に潜んでいるものではなく、もっと明確に意識されているものだ。
このような、自分の中の暴力衝動に向き合う恐怖についてノーラは言う。
「獣性恐怖。野獣を怖れること。自己投影のようなもの。一種の自己嫌悪ね。自分のなかの狂暴で不合理な部分を怖れること。たいていの人が、死ぬほど怖れているわ」それは、古典的なホラーの描く「被害者としての恐怖」とは異なる、いわば「加害者としての恐怖」である。たとえば、シドは妻を寝取った男のもとに乗り込んで暴力衝動を爆発させたことがある。その記憶があるからこそ、彼は自分のなかのけだものを恐れるのだ。本書の登場人物たちの暴力衝動は、愛情や嫉妬、復讐心といった、人間的な感情をきっかけに噴出するという点で、「狂気」という便利なキーワードですべてを片づける凡庸なサイコ・スリラーよりもはるかに真に迫っている。
このような暴力衝動の扱いは、ジム・トンプスンやジェイムズ・エルロイ、あるいは馳星周といった作家たちの作品に通じる。「暗黒小説」と呼ばれるこれらの小説は、犯罪について語ることで暴力を描いている。スプラッタパンクが、超自然現象などを通して暴力を描いているように。また、多くのミステリーが被害者や捜査側の眼で事件を追うのに対し、暗黒小説はしばしば犯罪者の視点から描かれる。
たとえば、『けだもの』という題名がほのめかす獣性=暴力衝動を、さらにストレートな形で題名に表現した小説がある。ジム・トンプスンの『内なる殺人者』(河出文庫)だ(2008/01追記:2005/06に三川基好による新訳が刊行された)。心に歪みを抱えた保安官補の一人称で語られる、私的な復讐をきっかけにくり返される殺人の物語。彼の精神には気さくな保安官補と殺人狂が境界なしに同居する。それは「向こう側」の怪物めいた「狂気」ではない。彼の行動は異様ではあるが、不自然なところはない。トンプスンの描くしたたかな異常さは、「こちら側」の我々にも説得力を持っている。加害者の視点に立った、暴力衝動が暴発するまでの心理描写が読者を震撼させる。
スプラッタパンクというスタイルは、加害者からの視点による恐怖を描くことを容易にした。典型的なホラーが、恐怖現象の受け手の心理を重視するのに対し、スプラッタパンクは即物的な血まみれの暴力描写に力を入れる。主観的な心理よりも、客観視可能な肉体。それゆえに、被害者の視点にこだわる必然性は薄れたのだ。
そして、暴力衝動を恐怖として描くだけでなく、誘惑として描くところもまた暗黒小説を思わせる。シドはノーラと関わり合ううちに、彼女の心に巣食う暴力嗜好に気づきながらもその世界に搦め取られてゆく。これまでに築いた日常を、友人を、社会のルールを捨ててもなお、シドを駆り立てる衝動。周囲からは堕落としか見えないだろうが、彼が感じるのは幸せな解放感だ。健全さを持ち合わせた人物として登場するシドが、どこまでノーラの「暗黒」に沈んでいくのか。それは本書のテーマのひとつでもある。
シドよりはるかに暗黒小説的なのが、ヴィクとノーラだ。二人とも、暴力を称揚し、嬉々として人を狩る。法律など何とも思わないアウトローで、弱肉強食という原理を信じている。
特にヴィクは裏の主人公とでも言うべき人物だ。ストーリーを動かす存在であり、積極的に行動して物事のイニシアチブを握ろうとするタイプだが、ノーラを憎みながら愛し、彼女から離れられずに堕ちてゆく破滅的な男でもある。いわば、暗黒小説に登場する主人公の典型なのだ。
一方のノーラは、初登場の場面で映画『ギルダ』のヒロインにたとえられる。『ギルダ』をはじめとする、四〇~五〇年代に作られた「フィルム・ノワール」と呼ばれる一連の映画は、テーマやスタイルの面で暗黒小説と深く結びついている。奔放なふるまいで男たちの心をかき乱すところを除けば、ノーラの人物像は映画のギルダとはさほど似ていないのだが、彼女がフィルム・ノワールや暗黒小説につきものの「運命の女【ファム・ファタール】」であることは明白だ。暴力の翳を帯びた危険な魅力の持ち主であり、男たちを翻弄する存在である。
本書は、シドの性格づけのおかげで典型的なアメリカ産娯楽小説となりおおせている。だが、もしもこの物語をヴィクとノーラの──特にヴィクの視点から描いたならば、まぎれもない暗黒小説になっていたに違いない。
さて、この物語を創った男たちのほかの作品についても記しておこう。残念なことに、そのほとんどが未訳だ。
ジョン・スキップ(一九五七年生まれ)とクレイグ・スペクター(一九五八年生まれ)は学生時代に出会い、映画関係のライターをしながら短編でデビューした。
二人の合作になる長編は、以下の六作がある。
“The Light at The End”(86)では、ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる。(2003年追記:その後『闇の果ての光』として文春文庫から邦訳が出た)
“Cleanup”(87)では、ひとりの青年が「天使」のお告げを聞き、汚れた街の浄化に乗り出す。
彼らの音楽の嗜好が垣間見える“The Scream”(88)では、悪魔的なヘヴィ・メタル・バンドが描かれる。
それまでに発表した短編をまとめて長編に仕立てたのが“Dead Lines”(89)。ちなみに、この作品の一部となった短編「男になれ」(Gentlemen,87)は、「SFマガジン」九〇年五月号に訳出されている。
“The Bridge”(91)は環境問題をテーマにした破滅もの。
そして本書、『けだもの』(Animals,93)。
なお、このほかに映画『フライトナイト』のノベライゼーション(86、講談社X文庫)がある。
二人は『けだもの』を最後にコンビを解消し、以後はそれぞれがアンソロジーなどに個別に短編を発表している。
また、ジョージ・A・ロメロに捧げられたゾンビ小説アンソロジー『死霊たちの宴』(89、邦訳98、上下巻、創元推理文庫)および続編“Books of The Dead 2:Still Dead”(91)の編者でもある。
このほか、映画『エルム街の悪夢5ザ・ドリームチャイルド』(89)の脚本にも関わっている。映画ということで付け加えておくと、二人は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のカラー版リメイク(90)やクライブ・バーカー監督の『ミディアン』(90)で、エキストラとしてゾンビを演じた。
「パンク」と名のつくムーブメントの定石どおり、運動としてのスプラッタパンクは今はもう沈静化している。だが、良質な作品は運動の盛り上がりとは関係なく読まれてしかるべきだろう。すでにコンビを解消している二人だが、長編の邦訳はノベライゼーションを除けば本書が初めてである。これから彼らの他の作品、あるいは他の作家たちの代表作の紹介が進むことを期待しよう。
まずは、激情に満ちたこの作品を存分に楽しんでいただきたい。
ただし……内なるけだものを解き放たないように、くれぐれもご注意を。
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