▼ 地底獣国の殺人
【ミステリ】
芦辺拓/講談社文庫 (解説)
芦辺拓氏は、先行する作品への敬意を自作での継承という形で表現することが多い。昨年(二〇〇〇年)刊行された氏の三冊の著書はその好例だ。『名探偵博覧会 真説ルパン対ホームズ』(原書房)はパスティーシュ短編集。そして、『怪人対名探偵』(講談社ノベルス)では乱歩の通俗スリラーの魅力に、『和時計の館の殺人』(カッパ・ノベルス)では横溝正史の世界に挑んでいる。
そして、一九九七年に講談社ノベルスから発表された本書『地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人』では、往年の秘境冒険小説にオマージュを捧げている。
秘境冒険小説とはどのようなものか、本書と関わりの深い作品から、いくつか例を見てみよう。
まずは、本書のタイトルに織り込まれている作品から。コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫ほか)は、南米奥地に赴いた探検隊が今なお生き残る恐竜に遭遇する、このジャンルの古典とも言うべき作品だ。そして、久生十蘭「地底獣国」(ちくま文庫『怪奇探偵小説傑作選3 久生十蘭集』に収録)では、一九三〇年代のソ連の国家戦略を背景に、極東に広がる地底世界に足を踏み入れた探検隊の運命が描かれる。
また、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』(創元SF文庫ほか)は、錬金術師の残した古文書の暗号を解き明かして火山口の下の世界へと旅する物語。本書のアララト山の設定にも影響しているようだ。登場人物の名前からは、小栗虫太郎『人外魔境』(角川ホラー文庫)や、香山滋が描く探検家・人見十吉のシリーズ(出版芸術社『月ぞ悪魔』などに収録)も視野に入っていることがうかがえる(本書の折竹十三がしばしば間違えられる「高名な探検家」について知りたい方は、『人外魔境』をお読みいただきたい)。
これらの作品に描かれるのは、空想によって組み立てられた異世界だ。ただしそれは、現実の世界のどこかに存在することになっている。現実に存在するかのように描かれた、しかしどこにも存在しない土地。それが、秘境冒険小説に描かれる異世界なのだ。
この異世界は、外側の世界に蹂躪されかねない危うさを抱えている。そもそも、ほとんどの秘境冒険小説は、外部から異世界へ侵入する者の物語である。時には、侵入者たちの背後にある無粋な思惑とも無関係ではいられない。
例えば「地底獣国」がそうだ。探検隊が地底世界に降りてゆく目的は、地下洞窟の軍事利用を企むソ連の国家戦略をふまえたものである。また『人外魔境』の一編「地軸二万哩《カラ・ジルナガン》」の冒頭では、イギリスとソ連の勢力が拮抗するアフガニスタンの一角に、ナチス・ドイツが探検隊を送り込む計画が発表される。
これらの作品は、神秘に満ちた世界を描きながら、一九三〇年代当時のきな臭い現実をしっかりと物語の中に取り込んでいる。そして、現実を空想の面白さに奉仕させてしまうような強さを備えている。
そのような姿勢は芦辺氏の作品にも共通している。現実離れした物語であるからこそ、それが成り立つような世界を構築する手続きを怠っていない。『殺人喜劇の13人』(講談社文庫)のあとがきで、氏は「犯人がトリックを用い、探偵によって謎解きがなされるという筋立てがリアリティをもって成立する世界を作りあげること」が「本格というスタイルを現代に復活させるために不可欠な作業」だったと述べている。そして、自身の作品や他の作家の作品から例を挙げている。
本書も同じだ。恐竜が闊歩し、伝説上の動物が息づく世界を二〇世紀の地球に置くために、まずは背景としての一九三〇年代が描かれる。
国内では、国体に反する思想が弾圧され、日本を世界の中心に位置づける怪しげな歴史観がさかんに語られた時代(青森県でキリストの墓が「発見」されたのもこの時代のことだ)。国外では、ナチス・ドイツが徐々に牙を剥きだし、日本と中国がいよいよ戦争に突入しようとする時代。本書に描かれるトルコでも、トルコ共和国の民族主義が、国内や近隣諸国の他民族との間で摩擦を起こしていた(探検隊が滞在する国境の町ドゥバヤジットも、実は少数民族のクルド人が人口の多数を占めている)。
ただし、このような史実をふまえて描かれるのは現実の一九三〇年代そのものではない。丁寧な取材から得られた事実をもとに構築された、いわば冒険活劇空間としての一九三〇年代である(そういえば、本書のエピローグには冒険活劇空間ならではのゲストが姿を見せている)。
主な舞台であるアララト山は、トルコ、イラン、ソ連(当時。現在はアルメニア)の三国が国境を接する地帯に位置する。そのため、アララト山の入山には制限がつきまとう(これは現在も同じ)。政治的な理由で生じた空白地帯だ。すぐ外側には各国の思惑が渦巻くこの空白は、冒険活劇の舞台にはうってつけの場所である。
ここに作られた秘境では、芦辺氏の想像力が自由にはばたいている。基本は古生物学の成果を参考にしているが、その枠に納まらないお遊びも見られる。とはいえ、空想が無軌道に繰り広げられるわけではない。この世界の事物は、律義なまでに本格ミステリのルールに従っているのだ。本書のトリックに触れるので詳しくは述べないが、すでに読み終えられた方は、ある生物の習性に関する記述を思い出していただきたい。
ところで、《ノアの方舟探検隊》の物語には外側の層が存在する。シリーズ探偵・森江春策が、祖父の過去を調べている途中で謎の老人に出会い、《ノアの方舟探検隊》の物語を聴く--という部分である。この小説は、「祖父の事跡を探る森江春策の物語」の中に、老人が語る「《ノアの方舟探検隊》の物語」が含まれるという二重構造になっているのだ。
本書での森江春策は、もっぱら物語の聞き手として登場する。秘境の物語の合間に現れて、驚いてみせたり、疑いを抱いたり、時には語り手の老人に反駁しながら、徐々に物語に引き込まれてゆく。
このような、物語とその受け手の姿が交互に描かれる構成は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)を連想させる。
有名な作品だが、本書と重なる部分について紹介しておこう。主人公はバスチアンという少年。彼は本屋から「はてしない物語」と題された本を持ち出して、学校の倉庫で読みふける。その本の内容は、ファンタージエンという異世界が危機に襲われる物語だ。エンデの『はてしない物語』の読者は、本に熱中するバスチアン少年の姿だけでなく、彼が読んでいる物語をも読むことになる。つまり、森江春策にとっての秘境探検物語は、バスチアンにとってのファンタージエンの物語と似たような位置にある。
『はてしない物語』の前半のクライマックスでは、バスチアンが物語の中の世界に入ってゆく。人間界からファンタージエンにやってきて、女王に新しい名前を与えることでこの世界を救う者。それが自分だと知ったバスチアンは、頭にひらめいた女王の新しい名前を口にして、文字どおりファンタージエンの中へと飛び込んで、この異世界を作り変えてゆく。
同じような図式が本書でも見られる。秘境冒険物語であると同時に本格ミステリでもある本書のクライマックスは、もちろん探検隊の一行を襲った惨劇の秘密が解き明かされる場面だ。探偵・森江春策は、自身の推理を語ることによって老人が語る物語に踏み込んでゆく。そして、それまでの物語を解体し、組み変えてしまう。
バスチアンがファンタージエンへ飛び込むことと、森江が自身の推理を語ることとでは、それぞれの作品における位置付けが異なる。ただしこの瞬間、バスチアンも森江も、入れ子になった物語の向こう側に足を踏み入れているという意味では同じ立場にいる。
もちろん、ファンタジー小説の登場人物であるバスチアンとは違って、森江は何も時間と空間を超えるわけではない。実際、作中の森江の行動といえば、老人に向かって自らの推理を語っているだけである。
にも関わらず、彼は確かに祖父が登場する物語の中にいる。それは、ミステリ的な叙述トリックによるものではない。技巧的だがストレートな語りだけで、現代の森江春策と三〇年代の探検隊の一行が同じ場面に立つのだ。その瞬間、二重構造の物語が一つに融合し、最大の見せ場はさらにスリリングなものになっている。
このような仕掛けからは、芦辺氏が「何を語るか」だけでなく、「どのように語るか」ということにも非常に気を配っていることがうかがえる。
その芦辺氏の中にはどうやら「子ども」が潜んでいるらしく、いくつかの作品に痕跡をとどめている。たとえば、氏のパスティーシュ短編ではしばしば複数の名探偵が共演している。これは、「あのヒーローとこのヒーローはどっちが強いのか」「もしもこのヒーローたちが共演したら」という子どもならではの思いつきを、自らのペンで実現させたものではないだろうか? あるいは、『不思議の国のアリバイ』(青樹社)に見られる特撮映画への愛着にも子どもの顔がのぞく。そして何より、本書である。「恐竜が闊歩する世界での謎解き」という、一歩間違えば荒唐無稽になりかねない思いつきを、一冊の小説にまで膨らませるのは、子どもの奔放な想像力のなせる業だろう。
ただし、氏の作品世界は決して「子どもの夢」だけで成り立っているわけではない。「子どもの夢」にしっかりした土台を持たせているのは、綿密な取材と精緻な考証という「大人の仕事」である。
それは、現実との距離を念頭においたバランス感覚とも言える。「子どもの夢」を完全に切り捨ててしまったら、新聞の社会面と変わらないような味気ないミステリになってしまうだろう。また、「子どもの夢」が何かの免罪符であるかのように、現実との距離を見失ったまま独りよがりの夢想を語ったところで、新史学のような妄想の張子ができるだけだろう(まあ、トンデモ本としては魅力的かもしれないが……)。
前述の『はてしない物語』の後半には、ファンタージエンで現実を見失い、もとの世界に戻れなくなったバスチアンの姿が描かれる。いくつもの苦難を乗り越えて、少年はひとまわり成長して現実世界に帰ってくる。そんなバスチアンに、彼が「はてしない物語」を持ち出した本屋の主人は言う。
芦辺拓氏は、先行する作品への敬意を自作での継承という形で表現することが多い。昨年(二〇〇〇年)刊行された氏の三冊の著書はその好例だ。『名探偵博覧会 真説ルパン対ホームズ』(原書房)はパスティーシュ短編集。そして、『怪人対名探偵』(講談社ノベルス)では乱歩の通俗スリラーの魅力に、『和時計の館の殺人』(カッパ・ノベルス)では横溝正史の世界に挑んでいる。
そして、一九九七年に講談社ノベルスから発表された本書『地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人』では、往年の秘境冒険小説にオマージュを捧げている。
秘境冒険小説とはどのようなものか、本書と関わりの深い作品から、いくつか例を見てみよう。
まずは、本書のタイトルに織り込まれている作品から。コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫ほか)は、南米奥地に赴いた探検隊が今なお生き残る恐竜に遭遇する、このジャンルの古典とも言うべき作品だ。そして、久生十蘭「地底獣国」(ちくま文庫『怪奇探偵小説傑作選3 久生十蘭集』に収録)では、一九三〇年代のソ連の国家戦略を背景に、極東に広がる地底世界に足を踏み入れた探検隊の運命が描かれる。
また、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』(創元SF文庫ほか)は、錬金術師の残した古文書の暗号を解き明かして火山口の下の世界へと旅する物語。本書のアララト山の設定にも影響しているようだ。登場人物の名前からは、小栗虫太郎『人外魔境』(角川ホラー文庫)や、香山滋が描く探検家・人見十吉のシリーズ(出版芸術社『月ぞ悪魔』などに収録)も視野に入っていることがうかがえる(本書の折竹十三がしばしば間違えられる「高名な探検家」について知りたい方は、『人外魔境』をお読みいただきたい)。
これらの作品に描かれるのは、空想によって組み立てられた異世界だ。ただしそれは、現実の世界のどこかに存在することになっている。現実に存在するかのように描かれた、しかしどこにも存在しない土地。それが、秘境冒険小説に描かれる異世界なのだ。
この異世界は、外側の世界に蹂躪されかねない危うさを抱えている。そもそも、ほとんどの秘境冒険小説は、外部から異世界へ侵入する者の物語である。時には、侵入者たちの背後にある無粋な思惑とも無関係ではいられない。
例えば「地底獣国」がそうだ。探検隊が地底世界に降りてゆく目的は、地下洞窟の軍事利用を企むソ連の国家戦略をふまえたものである。また『人外魔境』の一編「地軸二万哩《カラ・ジルナガン》」の冒頭では、イギリスとソ連の勢力が拮抗するアフガニスタンの一角に、ナチス・ドイツが探検隊を送り込む計画が発表される。
これらの作品は、神秘に満ちた世界を描きながら、一九三〇年代当時のきな臭い現実をしっかりと物語の中に取り込んでいる。そして、現実を空想の面白さに奉仕させてしまうような強さを備えている。
そのような姿勢は芦辺氏の作品にも共通している。現実離れした物語であるからこそ、それが成り立つような世界を構築する手続きを怠っていない。『殺人喜劇の13人』(講談社文庫)のあとがきで、氏は「犯人がトリックを用い、探偵によって謎解きがなされるという筋立てがリアリティをもって成立する世界を作りあげること」が「本格というスタイルを現代に復活させるために不可欠な作業」だったと述べている。そして、自身の作品や他の作家の作品から例を挙げている。
本書も同じだ。恐竜が闊歩し、伝説上の動物が息づく世界を二〇世紀の地球に置くために、まずは背景としての一九三〇年代が描かれる。
国内では、国体に反する思想が弾圧され、日本を世界の中心に位置づける怪しげな歴史観がさかんに語られた時代(青森県でキリストの墓が「発見」されたのもこの時代のことだ)。国外では、ナチス・ドイツが徐々に牙を剥きだし、日本と中国がいよいよ戦争に突入しようとする時代。本書に描かれるトルコでも、トルコ共和国の民族主義が、国内や近隣諸国の他民族との間で摩擦を起こしていた(探検隊が滞在する国境の町ドゥバヤジットも、実は少数民族のクルド人が人口の多数を占めている)。
ただし、このような史実をふまえて描かれるのは現実の一九三〇年代そのものではない。丁寧な取材から得られた事実をもとに構築された、いわば冒険活劇空間としての一九三〇年代である(そういえば、本書のエピローグには冒険活劇空間ならではのゲストが姿を見せている)。
主な舞台であるアララト山は、トルコ、イラン、ソ連(当時。現在はアルメニア)の三国が国境を接する地帯に位置する。そのため、アララト山の入山には制限がつきまとう(これは現在も同じ)。政治的な理由で生じた空白地帯だ。すぐ外側には各国の思惑が渦巻くこの空白は、冒険活劇の舞台にはうってつけの場所である。
ここに作られた秘境では、芦辺氏の想像力が自由にはばたいている。基本は古生物学の成果を参考にしているが、その枠に納まらないお遊びも見られる。とはいえ、空想が無軌道に繰り広げられるわけではない。この世界の事物は、律義なまでに本格ミステリのルールに従っているのだ。本書のトリックに触れるので詳しくは述べないが、すでに読み終えられた方は、ある生物の習性に関する記述を思い出していただきたい。
ところで、《ノアの方舟探検隊》の物語には外側の層が存在する。シリーズ探偵・森江春策が、祖父の過去を調べている途中で謎の老人に出会い、《ノアの方舟探検隊》の物語を聴く--という部分である。この小説は、「祖父の事跡を探る森江春策の物語」の中に、老人が語る「《ノアの方舟探検隊》の物語」が含まれるという二重構造になっているのだ。
本書での森江春策は、もっぱら物語の聞き手として登場する。秘境の物語の合間に現れて、驚いてみせたり、疑いを抱いたり、時には語り手の老人に反駁しながら、徐々に物語に引き込まれてゆく。
このような、物語とその受け手の姿が交互に描かれる構成は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)を連想させる。
有名な作品だが、本書と重なる部分について紹介しておこう。主人公はバスチアンという少年。彼は本屋から「はてしない物語」と題された本を持ち出して、学校の倉庫で読みふける。その本の内容は、ファンタージエンという異世界が危機に襲われる物語だ。エンデの『はてしない物語』の読者は、本に熱中するバスチアン少年の姿だけでなく、彼が読んでいる物語をも読むことになる。つまり、森江春策にとっての秘境探検物語は、バスチアンにとってのファンタージエンの物語と似たような位置にある。
『はてしない物語』の前半のクライマックスでは、バスチアンが物語の中の世界に入ってゆく。人間界からファンタージエンにやってきて、女王に新しい名前を与えることでこの世界を救う者。それが自分だと知ったバスチアンは、頭にひらめいた女王の新しい名前を口にして、文字どおりファンタージエンの中へと飛び込んで、この異世界を作り変えてゆく。
同じような図式が本書でも見られる。秘境冒険物語であると同時に本格ミステリでもある本書のクライマックスは、もちろん探検隊の一行を襲った惨劇の秘密が解き明かされる場面だ。探偵・森江春策は、自身の推理を語ることによって老人が語る物語に踏み込んでゆく。そして、それまでの物語を解体し、組み変えてしまう。
バスチアンがファンタージエンへ飛び込むことと、森江が自身の推理を語ることとでは、それぞれの作品における位置付けが異なる。ただしこの瞬間、バスチアンも森江も、入れ子になった物語の向こう側に足を踏み入れているという意味では同じ立場にいる。
もちろん、ファンタジー小説の登場人物であるバスチアンとは違って、森江は何も時間と空間を超えるわけではない。実際、作中の森江の行動といえば、老人に向かって自らの推理を語っているだけである。
にも関わらず、彼は確かに祖父が登場する物語の中にいる。それは、ミステリ的な叙述トリックによるものではない。技巧的だがストレートな語りだけで、現代の森江春策と三〇年代の探検隊の一行が同じ場面に立つのだ。その瞬間、二重構造の物語が一つに融合し、最大の見せ場はさらにスリリングなものになっている。
このような仕掛けからは、芦辺氏が「何を語るか」だけでなく、「どのように語るか」ということにも非常に気を配っていることがうかがえる。
その芦辺氏の中にはどうやら「子ども」が潜んでいるらしく、いくつかの作品に痕跡をとどめている。たとえば、氏のパスティーシュ短編ではしばしば複数の名探偵が共演している。これは、「あのヒーローとこのヒーローはどっちが強いのか」「もしもこのヒーローたちが共演したら」という子どもならではの思いつきを、自らのペンで実現させたものではないだろうか? あるいは、『不思議の国のアリバイ』(青樹社)に見られる特撮映画への愛着にも子どもの顔がのぞく。そして何より、本書である。「恐竜が闊歩する世界での謎解き」という、一歩間違えば荒唐無稽になりかねない思いつきを、一冊の小説にまで膨らませるのは、子どもの奔放な想像力のなせる業だろう。
ただし、氏の作品世界は決して「子どもの夢」だけで成り立っているわけではない。「子どもの夢」にしっかりした土台を持たせているのは、綿密な取材と精緻な考証という「大人の仕事」である。
それは、現実との距離を念頭においたバランス感覚とも言える。「子どもの夢」を完全に切り捨ててしまったら、新聞の社会面と変わらないような味気ないミステリになってしまうだろう。また、「子どもの夢」が何かの免罪符であるかのように、現実との距離を見失ったまま独りよがりの夢想を語ったところで、新史学のような妄想の張子ができるだけだろう(まあ、トンデモ本としては魅力的かもしれないが……)。
前述の『はてしない物語』の後半には、ファンタージエンで現実を見失い、もとの世界に戻れなくなったバスチアンの姿が描かれる。いくつもの苦難を乗り越えて、少年はひとまわり成長して現実世界に帰ってくる。そんなバスチアンに、彼が「はてしない物語」を持ち出した本屋の主人は言う。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」芦辺氏のような書き手がどのタイプに属するかは、あらためて言うまでもないだろう。