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怪人対名探偵

ミステリ

よみがえる探偵小説

怪人対名探偵 芦辺拓 / 講談社ノベルス

 子供のころ、ポプラ社から出ていた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズをよく読んでいた。

 このシリーズ、50巻くらい出ていたと思うが、後半は『魔術師』『黄金仮面』など、もともと大人向けに書かれた猟奇的なスリラーを子供向けにアレンジした作品が収録されていた。

 これを読むのがけっこう後ろめたかった。例えば『蜘蛛男』なんて「猟奇殺人者が次々と誘拐した女性を虐待して殺す」という話。立派な「悪書」だ。ポプラ社もよくこんなのを子供向けに出したものである。願わくば、世の教育熱心な親御さんたちが乱歩の正体に気づきませんように。

 『怪人対名探偵』は、そんな乱歩作品へのオマージュだ。

 舞台は現代。怪人「殺人喜劇王」が次々と起こす残虐な殺人。これを防ごうとする名探偵とその助手。果たして両者の対決の行方はいかに……?

 気球、マネキン人形、時計台、大観覧車、パノラマ、映画館、謎の客船……。

 乱歩のスリラーにあふれていた小道具がいたるところに飛び出すだけでなく、Eメールやビデオといった現代ならではの小道具も、作品のムードを損なうことなく取り入れられている。

 ちょっぴりメタフィクション風な仕掛けも施されているのは、やっぱり「新本格」以降の作家だからだろうか。

 探偵役はこの作者のレギュラー登場人物である森江春策。茫洋とした雰囲気の好人物で、強烈な個性を放つタイプではない。だから、例えば「きゃああ(御手洗/榎木津/火村)さぁん」な読者には物足りないのかもしれない。

 しかし、こういう強烈でない探偵のほうが、怪人が大暴れするような小説にはむしろ似合っているのではないだろうか。怪人の奇矯さを際立たせるには、同じように奇矯な探偵よりも「有能な常人」のほうが有効だ。

 あいにく、作者は乱歩みたいな筋金入りの変態ではないようで、原典に比べればいささか薄味なのは否定できない。

また、細部の整合性が怪しいところ、無理があるところ、説明不足なところもないではない。

 でも、それがどうしたと言うのだろう?

 この作品について、「本格ミステリとしての整合性が云々」なんて野暮なことを言う奴は、とっとと殺人鬼に切り刻まれてしまえ(絶世の美女ならなお良い。でも、美女なら野暮な台詞は口にしないで欲しいなあ)。これはあくまでも、乱歩の猟奇変態スリラー同様、変幻自在の展開の面白さで読ませる作品なのだから。「精緻な本格ミステリとしての完成度」なんて、この勢いを犠牲にしてまで求めるべきものとは思えない(だから、メインの仕掛けもいたってシンプル)。

 少年探偵団ものと猟奇スリラーとを同時期に読んだ人々にはおすすめの一冊。派手な殺人劇と並行して、ですます調で「名探偵」と「少年助手」のやりとりが随所に挿入されているのも、そんな読者の思い出を刺激するためだろう。

 ある種の読書体験を持つ人々を対象とした「内輪」向きの作品ではあるが、「本格ミステリ」の作家が「本格ミステリ」へのオマージュを書くような自家中毒状態に比べると、微妙な射程のずらし方が幸福な結果を生んでいる作品だと思う。

……少年時代の思い出を巧みにくすぐられた私は、もはや何でも許す心境になっている。

ハンニバル

ミステリ

人を喰ったブラック・コメディ

上巻下巻トマス・ハリス / 新潮文庫

 『羊たちの沈黙』の続編。ただし、単なる『羊たちの沈黙2』ではない。

 これは華麗な衣をまとってはいるものの、まぎれもないブラック・コメディだ。

 前作『羊たちの沈黙』をまじめに読んできた人はがっかりするかもしれないが、それはおそらく作者の思うつぼ。大きくなりすぎたヒーローをどうやって始末するか、というのがこの作品に与えられた課題のひとつなのだから。

 『羊たちの沈黙』までのレクター博士の「凄み」がどこから出ていたかと言えば、「まったく内面が描かれない」という一点につきる。それが今回は、内面描写はもちろん、その生い立ちまでもがつぶさに語られるありさまだ。レクター博士は「怪物」ではない、「人間」にすぎないのだ、ということを見せつけるかのように。

  いうなれば、これは作者自身の手による偶像破壊行為。レクター博士を「アイドル」として描いたのが前作ならば、今回は「アイドルだってトイレに行く」という物語だ。

 誇張されたキャラクターたちがくりひろげる、荒唐無稽と紙一重(というか荒唐無稽そのもの)の物語を描く文体もまた、余裕たっぷりの上に悪ノリの過ぎる素敵なしろもの。きわめて悪趣味な物語であることは間違いない。

 今回、レクター博士がフィレンツェの街で芸術と文学を語り、科学への深い造詣を見せ、さらに人間以外の食材についてもグルメぶりを発揮するのも、作品の悪趣味ぶりをよりいっそう引き立てるためではないだろうか。悪趣味を引き立てるには、「悪」でない趣味を描くのが一番だ。

 クライマックスの料理シーンは大笑い。

 そしてここに至って初めて気づいたが、これはつまるところ「モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス」なのだ。

 念のため簡単に説明しておくと、「モンティ・パイソン」とは30年近く前のイギリスで放送されていたコメディ番組で、イギリス国営放送でやっていたとは思えないくらいに毒のきついギャグをふりまいていた。現在はビデオで全話を見ることができる。この「モンティ・パイソン」でしばしば描かれたのが、人肉食がらみのギャグ。あるエピソードでは、『ハンニバル』のクライマックスと似たような風景が描かれる(さすがに実写ではなく、アニメだ)。

 映像として見ると明白なのだが、やっぱりこの光景は爆笑ものである。しかもレクターは(と言うより作者トマス・ハリスは)、さらにいくつかの要素を付け加えてバカバカしさを増幅させたうえに、その後でもうひとつとんでもないことをやらかしてしまうのだ。

 このシーン、ラストにつなぐ前の、作中でもかなり重要な場面である(そういえば「モンティ・パイソン」のくだんの映像も、人食いギャグがエスカレートしてイギリス女王をも巻き込んだオチへとなだれ込む前の、重要なところに位置していた)。そんなところで読者を笑わせてしまうのだから、彼の意図はおのずと明らかだ。

 「モンティ・パイソン」がイギリス女王をネタに好き勝手なギャグを繰り広げたように、トマス・ハリスもまたレクター博士をネタにして遊んでいる、そんな印象を受けた。「モンティ・パイソン」との大きな違いは、もちろんレクター博士がハリスの創作物である、というところ。これはもう、そこまでの底力をもつキャラクターを創造できた作家の特権だろう。

 豪華なおぜん立ての上でやってのけた、壮大なポトラッチ。

 もう、レクター博士をまともな形で小説に登場させることはできないだろう*1。シリーズを重ねる毎に痛々しい存在と化してしまった「13日の金曜日」のジェイソンなんかに比べれば、彼の最後ははるかに幸せだ。

*1 : 2008/01追記:ハンニバル・ライジング(笑)。