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禿鷹の夜

ミステリ

不良警官vs暴力団vs南米マフィア

ISBN:4167520060逢坂剛 / 文藝春秋
 組織の枠から逸脱した暴力刑事と昔気質の暴力団とが手を組んで、南米マフィアと対決する。

 主役はこの暴力刑事。禿富鷹秋、通称禿鷹。ちょっと難のある命名ではあるが、この人物のワルさは確かにコンドルのようなイメージである。

 最近はやりの「幼年期のトラウマ」も「精神異常殺人者」も出てこない。ジェイムズ・エルロイみたいに狂った妄念をこめるでもなく、一部で人気沸騰のジム・トンプスンのようなとんでもない境地に読者を誘うわけでもない。

 いたずらに先鋭化したり刺激を追い求めることなく、扇情的な性や暴力の描写も抑えながら、この手のジャンルの往年のスタンダードを貫いている。

 どちらかといえば古典的なノワールだ。そういえば著者自身、50年代前後の海外ミステリがお好きなようである(ハドリー・チェイスの『世界をおれのポケットに』復刊の推薦者は逢坂剛)。

 ただ、最後のアレ(単行本p.356の10行目で言及されるようなこと)はちょっとよけいだったかな、と思う。

2000/07/14(金) 地底獣国の殺人

ミステリ

2008/01おことわり

このサイトの2000年頃の読書録は全部そうだけど、この文章は当時利用していたreview-japanというレビュー投稿サイトに書いたもの(いまではkhipuという名前になっているようだ)。まさか後に自分が文庫解説を書くことになるとは思わなかった。

人外魔境で謎解きを

ノベルス文庫 時は1930年代、日本が急速に軍国主義に傾倒してゆく時代。

 日本の新聞社が「ノアの方舟探検隊」プロジェクトをぶち上げる。奇人学者に美人助手、科学者たちにカメラマンと新聞記者からなる探検隊は、飛行船でアララト山を目指す。

 が、現地にたどり着く前から何やらきな臭い陰謀の影が一行につきまとう。そして一行がようやくたどりついたのは、アララト山内部の空洞に広がる、恐竜が今も生きている世界だった。だが、一行の中で連続殺人事件が……。

『失われた世界』(コナン・ドイル)、「地底獣国」(久生十蘭)、「人外魔境」シリーズ(小栗虫太郎)といった、往年の秘境探検ものへのオマージュ。最初の二つについては作中で触れられている(特に「地底獣国」は題名にも含まれている)し、主要登場人物の一人の名字は「人外魔境」の主人公の名前と同じである。

 『怪人対名探偵』もそうだったが、作者はこの手のオマージュ作品では独特の巧さを発揮する。そういえば、作者の出発点は、「自分の読みたい小説が現代には存在しないので自分で書くことにした」(当時は「新本格」ブームの直前)というところにある。つまりこれは、現代には存在しない「自分の読みたい小説」に他ならないのだ。

 それだけに、物語自体も非常に楽しめる。最近の科学的成果も取り入れた舞台設定はもちろん、「邪馬台国はエジプトにあった」などの怪説とともに「新史学」を提唱する奇人学者・鷲尾哲太郎の存在感は強烈だ(もっとも、これは実在の人物を下敷きにしている)。

 1930年代という舞台設定も作品に緊張感を与えている。複雑怪奇な国際政治が、秘境にも影を落とす時代。もはや秘境といえども人間の営みと無関係ではいられなくなった時代だ。

 たとえば本書のアイデアの源泉である「地底獣国」には、背景として当時のソ連の対日戦略が描かれる。また「人外魔境」シリーズにも、日本の領土拡大に関連するエピソードがあった。そもそも、探検という行為そのものが「政治」や「国家」と深く関連しているのだから、政治とは何かと縁が深くなるのも無理はない。

 問題は、これが単なる秘境探検小説ではなく、連続殺人の謎を解く「本格ミステリ」でもある、ということ。両者を融合させようという意欲的な試みではあるが、枠組みがあまりにも典型的な「本格ミステリ」であり、さらにいくつもひねりを加えているため、謎解き部分が探検物語から浮きあがっている印象は否めない。

 では純然たる秘境探検小説にすべきだったのか?

 そうではない。

 読者に最初に提示される物語が、謎の解明によってもう一つの顔を表すというミステリの物語形式は、「ロマンあふれる秘境探検」のもうひとつの側面を、クライマックスの謎解きという印象的な形で浮かび上がらせている。謎解き部分への違和感も、あるいは「ロマン」のもう一つの顔が暴かれることに対する戸惑いなのかもしれない。

麦酒の家の冒険

ミステリ

ビール飲みの、ビール飲みによる、ビール飲みのためのミステリ

麦酒の家の冒険(講談社ノベルス)麦酒の家の冒険(講談社文庫) 西澤保彦 / 講談社ノベルス → 講談社文庫

 ビールがおいしい季節は夏だ、とされている。

 私の人生はいつだって夏だ。
 春は桜の木の下で、秋は大地の収穫に舌鼓を打ちながら、冬はこたつで鍋を囲んで、ときにふれ合う脚と脚、二人は互いに見つめあい、ほてった頬は桜色、そして絡まる指と指(おっと以下略)と、夏でなくともビールはおいしいものだ。
 ところで、この麗しくも黄金色に輝く神の恵みを、「とりあえず」などというふざけた姿勢で飲むような輩がいる。
「とりあえず」だと!(やや逆上)
 そのような不逞の輩に、この芳醇な大地の恵みを口にする資格など本来ありはしないのだ。水でも飲んで寝ているがいい(逆上)。
 ことに「一気のみ」などと称して無為にビールを消費する学生などは、とっとと急性アル中で倒れてしまえ運ばれてしまえこの世からいなくなってしまえ(著しく逆上)。

 ……失礼。なお、ふだんの私は紳士的なふるまいを忘れない小心者だ。上のような暴言を吐くことはない。と思う。

 何はともあれ、そんなビール飲みとして強く強く推薦したいのが、この麦芽100%のミステリだ。

 夏の終わり、ドライブの途中で道に迷った4人の若い男女。彼らがたどりついた山荘には、家具といえばベッドがひとつ、そして冷蔵庫がひとつ置かれているだけだった。しかし冷蔵庫の中には大量の缶ビールと13個のジョッキが冷やされていた! かくして、することもない彼らは勝手にビールを飲みながら、この奇妙な状況がなぜ作られたかを推理する……。

 本書の大半を占めるのは、この4人が飲んだくれながら繰り広げる推理の数々だ。このやりとりの中に、4人のキャラクターとそれぞれの関係も描かれている。が、やはり中心にあるのは、この奇妙なシチュエーションに対して次から次へと繰り出される解釈。さまざまな説が検討され、否定され、補強される。ときには、素面の人間ならとても思いつきそうにない奇怪な説まで飛び出す。

 作者はビール好き。この事件の解決も、ビール好きでなければ考えそうにない性質のものである。

 ある種のドラッグ文学が「素面」じゃわけがわからないように、これも軽くビールなど飲みながら楽しむのに適している。もっとも、作中で繰り広げられるロジックが分からなくなるまで飲み過ぎないようにご注意を。

 なんだか、のどが渇いたな……

悪党パーカー/ターゲット

ミステリ
リチャード・スターク / 木村仁良訳 / ハヤカワ・ミステリ文庫

 財務コンサルタント・キャスマンが持ちかけてきた仕事は、試験的に興行しているカジノ船の襲撃だった。パーカーは彼の意図に不審なものを感じながらも、仲間を集めて計画を練る……。

 『悪党パーカー/エンジェル』に続く、復活第二弾。

 標的は川の上のカジノ船。周囲と隔絶された、いわば一種の「密室」である。この密室にため込まれた大金をいかにして奪い、いかにして逃げ延びるか。冷徹な計画の下に不可能を可能にするプロセスは、形こそ違うが、謎解きミステリにも通じるカタルシスを感じさせてくれる。そう、これはまぎれもなく、不可能犯罪を描くミステリである。

 そして、こんな大仕事をやってのけるパーカーの個性も、このシリーズの魅力の大きな位置を占めている。「仕事」に徹する非情なプロフェッショナル。場当たり的な仕事は決してしない。事前に入念な調査をして、計画を立て、同じくプロの仲間たちと連絡を取り合い、計画を実行に移す。予定外の事態にも臨機応変に対処し、本来の目的を見失わない。

 そう、やっていることはまぎれもない犯罪だが、その犯罪に臨む姿勢は、まぎれもなく企業の新人教育で教えこまれるような「正しい社会人」そのものである。業務計画の立案、プロジェクトの工程管理、チーム内での情報共有、業務の分担、業績の評価、リスクマネジメント……。

「プレジデント」なんかも、いつまでも戦国武将ばっかり取り上げてないで、「悪党パーカーに見るプロジェクト管理者の資質」「優れた人材獲得の秘訣を悪党パーカーに学ぶ」「悪党パーカー流リスクマネジメント」なんて特集でも組めばいいのにね。あと、企業の新人教育のテキストにもおすすめ。

バットマン 究極の悪

ミステリ
バットマン 究極の悪 アンドリュー・ヴァクス / 佐々田雅子訳 / 早川書房

 バットマンことブルース・ウェインがたまたま知り合ったソーシャルワーカーの女性・デブラ。彼女を通じてバットマンはゴッサムの街を蝕む悪の一つ、児童虐待のことを知る。さらに児童虐待問題を追ううち、彼は両親の死に絡む謎、そして巨大な児童売春組織を追うことになる……。

アウトロー探偵バークのシリーズで知られるヴァクスが、アメリカのヒーローを語る上で欠かせない存在・バットマンをヒーローに据えて、彼の一貫したテーマである児童虐待問題を取り上げた作品。

バークというアメコミ風の要素もあるダークなヒーローを描いてきただけあって、バットマンというもう一人のダークなヒーローを描く腕前はなかなかである。ストーリーも、シンプルながらゴッサムから東南アジアの架空の小国へと展開し、なかなか読みごたえがある。

 なお、巻末には児童虐待問題に関する短い文章と、市民団体の連絡先が掲載されている。そう、ヴァクスは本気なのだ。実際、彼の本業はこの問題を専門に扱う弁護士なのだから。

 そして、この「問題意識の過剰なまでの強さ」こそが、ヴァクスが「娯楽作家」に徹し切れない一因でもある。彼の小説には必ずといっていいほどこの問題が取り上げられ、その問題意識の強さゆえに、児童虐待問題についての記述が物語を侵蝕してしまう。まるで島田荘司が日本人論と冤罪の話をせずにはいられないように。

 簡単に言ってしまえば「説教臭い」のだ。初期の作品では、その説教臭さを物語の力で覆い隠すことができた。だが、シリーズを重ねるうち、どうしても説教臭さが鼻につくようになってくる。

 ヴァクスという作家、腕前は確かなのだから(たとえば、この人の短編はノワール風の翳りを帯びた、どこか幻想的な美しさに満ちている。短編集があればぜひ邦訳希望)、自身の問題意識をもっと洗練させた形で作品に描きこんでほしいのだが……