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13のショック

小説
ASIN:4152086823リチャード・マシスン / 吉田誠一訳 / 早川書房

異色作家短編集第4巻。『地球最後の男』で知られる作家の短編集。

収録作品

ノアの子孫

ニューイングランドの閉鎖的な町……というとつい「インスマスの影」を思い浮かべてしまう。対象は似ていても、恐怖の質感はそれぞれでずいぶん違うのだけれど。

レミング

無常感漂う渾身の一発芸。

最近書かれたもの、といっても通用しそうなくらいにテーマが現代的。短いながらも密度の濃い衝撃作。デビュー作の「モンスター誕生」とも通じ合うところがあるように感じた。

長距離電話

こういう展開でこういう終わり方かな、と読めてしまってもひきこまれてしまうのは、やはり演出方法の妙だろう。

人生モンタージュ

映画「チーム・アメリカ」の劇中、主人公の特訓シーンのBGM、“モンタージュの歌”を思い出した。

天衣無縫

ふつうのおじさんが突然知識の泉に。「アルジャーノンに花束を」をどす黒くしたような。

休日の男

「見えてしまう男」の苦悩。『フラッシュフォワード』あたりを思い浮かべた。

死者のダンス

本筋はさておき、「未来の退廃的な文化」のレトロ・フューチャーぶりが印象深い。

陰謀者の群れ

わずかなページにまとまった理想的な陰謀小説。パラノイアックな焦燥感は何度読んでも鮮烈。

次元断層

話の傾向は全然違うけど、恒川光太郎「夜市」を連想した。

忍び寄る恐怖

全米がロサンゼルス化する恐怖を描いたバカ話。「西海岸の人間」に対するステレオタイプなイメージは、どうやらアメリカ国内においても通用するらしい。

ある人曰く「東海岸の人と仕事していると、まじめに品質の良し悪しとかを話すんだけど、西海岸の人はすぐに"cool!"とか言い出すんだよねえ……」。でも西海岸の人は、こちらが仕事をがんばると、お礼にカリフォルニアワインを贈ってくれたりするのでcoolです。おいしかったよ。

死の宇宙船

これまた、語り方で成り立っている作品。アイデアストーリーではあるが、何度読んでも楽しめる。

種子まく男

こちらも陰謀小説的観点から見て興味深い作品。ご町内に不和をまき散らす男の内面が一切語られないところがポイントだろう。

フェアリー・フェラーの神技

小説
ASIN:4894490315マーク・チャドボーン / 木村京子訳 / バベル・プレス

2003年度の英国幻想文学大賞短編部門受賞作。そう、短編ひとつで本一冊なのだ。この本の表紙を飾る絵画“Fairy feller's master stroke”に憑かれた男の物語である。

狂気の画家が描いた一枚の絵。その絵に魅せられた少年は、早熟の天才。成長した彼は酒とドラッグに溺れるろくでなしに。そして彼は、自分を虜にした絵の作者が歩んだ道をたどる旅に出る。いつしか彼は、精神のバランスを失い、自分とダッドを同一視する……。

人生を棒に振ってしまいそうなくらいにのめりこめる作品。そんなものに出会ったことがあるだろうか? 幸か不幸か、私にはない。大いに笑ったり、心を揺さぶられたり、考え方に影響を受けたり……そういうものはたくさんある。でも、人生を棒に振ってしまいそうなくらいの作品となると、ちょっと思い浮かばない。

それは幸福なことなのか、それとも不幸なことなのか。

いくつもの新作を読む。年間ベスト級の作品もあれば、そんなに大したことのないものもある。傑作でも水準作でもそれぞれに応じた楽しみを得ている。そんな生活を送っている。

たまに思うことがある。「究極の一冊」に出会ってしまったらどうなるんだろう、と*1

あまり幸せそうだとは思えない。本書の主人公だって、苦難の道のりを歩んでいる。ノワールに登場する男が、ファム・ファタールとともに堕ちてゆくように。

もっとも、本書の主人公には救済が与えられている。凡庸な着地点という救済が。それがこの小説の長所でもあり、短所でもある。多くの人にとって受け入れやすいけれど、一線を越えた凄みを感じさせるにはいたらない。いい作品ではあるけれど。

美術に関するサイトを調べてみると、この絵の題名は「お伽の樵の入神の一撃」と訳されるのが一般的らしい。でも、訳者が選んだタイトルは「フェアリー・フェラーの神技」。

クイーンII 訳者はクイーンの大ファンらしい。彼らの二枚目のアルバムに、“Fairy feller's master stroke”──邦題は「フェアリー・フェラーの神技」という曲が収められているのだ。

クイーンのアルバムでも、全体のまとまりのよさではトップクラスの一枚。このアルバムもまた、入神の一撃である。

ちなみに、この絵を描いた画家リチャード・ダッドについては、Arts at Dorianに詳しい。

*1 : 戦場に赴く若者が『黒死館殺人事件』だけを携えて出征した、というエピソードを思い出す。

小説

あるいは閉ざされた小さな場所。

 江戸川乱歩は閉ざされた小さな場所に独特の偏愛を抱いていたようで、「人間椅子」なんてのはその好例。あの話は、他の作家が書いてもあれほど面白くはならなかったんじゃないか、と思う。

 そういえばミステリで好まれる「密室」というシチュエーションも閉ざされた小さな場所であり、それを意識した作品も少なくない。最も記憶に残っているのは、ペール・ヴァールー&マイ・シューヴァルの『密室』。ある中年刑事の捜査活動を追う物語で、謎解き重視の作品ではない。だが、ここに描かれる密室は、単なる事件現場ではなく、社会そのものの閉塞感とも重なり合う。深く憂鬱な余韻を残す作品だ。

 そんな、閉所恐怖症の人にはオススメできない小説をいくつか思い出したので挙げておこう。 

『魍魎の匣』京極夏彦

魍魎の匣箱の中はみっしり詰まっているべきである、というテーゼを確立した名作。

『箱男』安部公房

箱男段ボール箱をかぶって生活する男の話……としか説明しようがない。登場人物の看護婦さんがどうにもえっちでよいです。

『箱のなかのユダヤ人』トマス・モラン

箱のなかのユダヤ人 第二次大戦下、オーストリアの田舎。ぼくの家は、恩のあるユダヤ人医師を屋根裏の「箱」にかくまうことにした……閉鎖空間でのドラマが魅力。

『箱の女』G・K・ウオリ

箱の女
 原題は"American Outrage"。事故で箱の中に三日間閉じ込められた女性の変容を軸に、現代アメリカのさまざまな面を浮き彫りにする。ニューイングランドの田舎を舞台にして、土俗的な味わいが濃い。

『地下室の箱』ジャック・ケッチャム

地下室の箱
 異常者に拉致され、地下室の箱に閉じ込められた女性の話。元気になれる鬼畜小説。→詳細

「人間椅子」江戸川乱歩

人間椅子w/ヤン・シュヴァンクマイエル
 短い中にも、乱歩の変態ぶりが遺憾なく発揮された名品。(amazonで検索)

「早すぎた埋葬」エドガー・アラン・ポオ

生きているうちに埋葬されてしまう、という恐怖(『ポオ小説全集3』などに収録)。
  • 2009-07-20 Bookstack 古山裕樹
    「このミス」大賞の応募原稿を返送。宝島社の方は非常に梱包スキルが高く、送られてくる箱にはいつも原稿がみっしりと詰まっている。原稿を取り出したあとで元通りに詰め直すのにいつも苦労するのだが、やはり今年もそうだった。容積が増減するものでもないのに。実に不思議で...

二月二日ホテル

小説
ASIN:4041612268北方謙三 / 角川文庫

(文庫解説)

 写真家・望月を主役に据えた短編集は、本書と、先に刊行された『一日だけの狼』の二冊がある(各編は独立しているので、本書から読み始めていただいても差し支えない)。これらの短編が発表されたのは、一九八三年から一九九一年の約八年間。作者にとってどのような時期だったのか、簡単にふり返っておこう。

 純文学から出発した北方謙三が、『弔鐘はるかなり』でエンターテインメントに転じたのが一九八一年。八三年には、「ブラディ・ドール」シリーズの第一作となる『さらば、荒野』や、代表作のひとつ『檻』などを発表し、ハードボイルドの書き手としての評価を高めていった。その活躍の場を歴史小説に広げたのが、八九年の『武王の門』以降の作品だ。九〇年代に入ってからも、ハードボイルドを書き続けながら、『三国志』などの歴史小説にも精力的に取り組んでいる。

 ハードボイルド作家としての地位を築いてから、新境地に乗り出すころまで。そういう時期に書かれた望月の物語には、北方流ハードボイルドのエッセンスが詰まっている。



 望月の登場する短編は、常に彼の一人称・一視点が貫かれている。これらの短編を読むことは、望月という人物を知ることに他ならない。
被写体の過去を頭に入れて、シャッターを押すのは、私のやり方ではなかった。一瞬見せる、心の底。それが表情に現われる。そこに、私自身の情念を映しこんだものを、私はいつも撮ろうとしてきた。問題になるのは、被写体の過去ではなく、私の過去なのだ。(「途中下車」より)
 望月が語る、自己の信条の一端である。

 一瞬見せる、心の底。それが望月にとってのシャッターチャンスだ。例えば、本書「水曜の夜」での一場面。取材を受けるスポーツ選手の表情が変わる瞬間、それをすかさず撮るくだりは、彼にとってのシャッターチャンスがどのようなものかを簡潔に示している。

 望月の写真は、被写体とのせめぎあいなのだ。時には、撮られる側に主導権を握られたまま、相手が望むままの写真を撮ってしまう場合もある。それは、彼にとって「被写体に負けた」ことを意味する。

 状況に振り回されることなく、イニシアティブをとって、写真を「私自身の情念を映しこんだもの」にすること。そこで重要なのは、「被写体の過去ではなく、私の過去」だ。

 彼はしばしば過去をふり返る。たとえば「夜よ静かに」「シャッターチャンス」の二編。どちらも、望月が深夜の映画館を訪れ、二十年もの昔を思い浮かべる場面で幕を開ける。……といっても、その感触は心地よいノスタルジーとは異なる。時の流れが、すべてを美化してくれるわけではないのだ。

 望月は(作者と同じく)全共闘の世代に属している。心の中には、学生運動に関わっていたころのある体験が、今も渦を巻いている。暴力にまつわるその陰惨な記憶は、いくつもの短編で繰り返し語られる。暴力沙汰に遭遇したとき、彼はしばしばその体験を思い起こし、自らに問いを投げかける。そうして過去に向き合うことで、現在を選び取ってゆく。「過去」と「暴力」。北方作品においてしばしば大きな意味を持つこの二つのキーワードは、本書でも主人公のありかたを規定する重要な役割を担っているのだ。

 過去。それは望月の行く先々で彼を待ち受けている。たとえば、本書の表題作「二月二日ホテル」がそうだ。舞台こそアフリカだが、そこで望月が関わる相手は、自らの過去に他ならない。ちなみに、『一日だけの狼』に収められた「煙草」も、ほとんど同じ構図を描いている。深夜の映画館のエピソードが二つの短編で語られているように、過去へと通じるモチーフは、しばしば反復されるのだ。

 暴力。本書を(そして北方作品を)貫く重要なテーマだ。多くの北方作品の主人公と同じく、望月もしばしば殴り合いの当事者になる。それだけではない。本書の「暴」(象徴的な題名だ)で語っているように、望月は写真もある種の暴力だと考えている。

 望月はどのように自分や他者の暴力衝動と関わってゆくのか、そして過去の暴力の記憶とどのように向き合ってゆくのか。本書の中で、形を変えて何度も反復される問いであり、この作品集の大きな読みどころでもある。

 写真家という職業からうかがえるように、望月は観察者として位置づけられている。あくまでも観察者であり、決して解説者ではない。なにより、彼自身がこう語っている。
撮った写真の解説は、私ではなく違う人間がつけてくれる。(「暴」より)
「思っていることは、いろいろあるさ。カメラマンの仕事は、それを喋ることじゃなく、シャッターを押すことだからね」(「途中下車」より)
 この姿勢が、望月の語り口をハードボイルドというスタイルに--内面描写を排して行動のみを描くスタイルに結びつけている。望月の言葉は、解説を排して、観察したままを簡潔に語っている。自身の心象はそれなりに述べられているけれど、語られない領域を多く残している。硬質な文章の隙間に広がる余白の部分へと思いを馳せる。北方謙三のハードボイルドの味わいはそこにある。

 また、望月という観察者のありようは、短編という形式とも無縁ではない。事件のすべてを描いてゆく長編小説と、事件のある瞬間を切り取る短編小説。写真という表現は、どちらにより近いだろうか。
カメラマンという呼称はムービーのカメラマンのことで、私のようにスチール写真を撮る人間は、フォトグラファーと言うのだと、その友人が教えてくれた。(「夜よ静かに」より)
 カメラマンが撮るムービーと、フォトグラファーが撮るスチール写真。そこには、ちょうど長編小説と短編小説のような関係が成り立っている。連続性を持つ長編がムービーなら、一瞬を切り取った短編はスチール写真だ。

 本書、そして『一日だけの狼』は、主に「カメラマン」としての活躍が知られている北方謙三が、「フォトグラファー」としての腕前を発揮した作品集である(ちなみに氏は、『黒き肌への旅』という正真正銘の写真集も出版している)。

 北方謙三が望月という個性あふれるカメラを通して切り取った数々の場面を、じっくりと堪能していただきたい。

ペンギンの憂鬱

小説
ASIN:4105900412アンドレイ・クルコフ / 新潮社

動物園が手放したペンギンと暮らす、売れない小説家ヴィクトル。ある日、存命中の人々に関する追悼文の執筆を頼まれる。
やがて、彼が追悼文を書いた人物が次々と命を落とし、彼の身辺にも不穏なできごとが……。

パラノイアな色彩を抑えた、穏やかな感じの陰謀小説

アンドレイ・クルコフはウクライナの作家。ウクライナといえば最近(2004/12)大統領選挙をめぐって陰謀めいた騒ぎまで起きているだけに、こういう話も出て来やすいのだろうか。

といっても狂ったような熱気などは皆無。主人公の淡々とした日常と、その合間に起こる物騒で不可解なできごとが、静かなタッチで描かれる。男一人とペンギン一羽の孤独な暮らしに、いつのまにかギャングの娘やベビーシッターまでが加わって、擬似的な家族のようなつながりが生まれる。

ペンギンを連れてピクニックに出かけるような愉快な場面と、謎めいた人々が交錯する不気味な場面とがバランスよくミックスされて、憂鬱さとユーモアの入り混じった小説になっている。

やはり印象的なのはペンギンのミーシャの存在だ。特に大活躍するわけじゃなくて、ぺたぺたとそのへんを歩き回って魚を食べているだけ。「ただそこにいるだけ」という感じがよい。