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北米探偵小説論

評論
ISBN:4309902847 野崎六助 / インスクリプト

 3000枚に及ぶ大著。『20世紀冒険小説読本【海外篇】』は小説を通して歴史を見る本だが、こちらは歴史を通して小説を見る。といっても、折々の社会事象が小説にどのように反映されたか、という単純な話ではない。

 いわば、探偵小説という形式から見たアメリカ文学論でもあり、日本ミステリ、在日朝鮮人文学と言った領域にも話題は広がってゆく。

 「北米探偵小説論」と名付けられているものの、ときとしてそれは「北米」からも「探偵小説」からも逸脱して、たとえばアメリカ共産党の日系党員の話や、野坂参三スパイ説にページが費やされる。ただし、それらは決して本論と無関係ではない。

 前半の主役は二人。ヴァン・ダインとダシール・ハメット。特にヴァン・ダインにはかなりのページを費やし、彼の作り上げたもの、本当に作ろうとしていたもの、そして後継者たちが引き継いだものが語られる。こうしてみると、確かにアメリカのミステリにおける彼の役割は重要だったのだろう。とはいえ、今ではやっぱり「資料的価値」の強い作家だと思うので、無理に全作を読むこともないと思う。

 繰り返されるのは、様式の確立と、そして様式を生み出した作家自身がその様式に縛られる過程だ。ヴァン・ダインも、ハメットも、チャンドラーも、ロス・マクドナルドも、自らの作り上げた様式に囚われてしまう。本書の終わり近くで批判される、ハリウッド映画的なジャンルミックス型作品もまた、そうした「様式」の一形式なのかもしれない。

 ある様式に則って書き続けること自体は、一向に差し支えない。だが、「様式に則って何かを書く」のではなく、「様式を書く」状態になってしまった場合は、作品からは輝きが消えてしまうだろう。アンドリュー・ヴァクスの近作のように。

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サヴェッジ・ナイト

ノワール

物語そのものが壊れてゆく、小さな破滅の物語>

ISBN:4881357301 ジム・トンプスン / 門倉洸太郎訳 / 翔泳社

 小男の殺し屋リトル・ビガーは、ある裁判の重要証人の口封じに雇われて、田舎町にやってきた。学生を装って、標的の家に下宿しながら、暗殺の機会をうかがっていたが、標的の妻、足に障害を持つ女、世話好きの老人など、一筋縄ではいかない人々が彼の周囲に現れる……。

 ゆがんだ世界のゆがんだ物語。誠実にして邪悪な主人公もさることながら、自堕落な標的の妻、片足に障害を持つ女といった女性陣にも、とらえどころのない感覚が漂っている。そして何より、主人公に親切にしてくれる老人。善意に満ちていながら、その善意のあらわれかたはどこか不気味だ。

 終盤の壊れ具合は戦慄モノ。単純なクライム・ノヴェルに見せて、結末の破天荒な展開からはかなり精緻な構造が浮かび上がる。

 巻末には馳星周の絶賛文章がついているが(エルロイの『ホワイト・ジャズ』、ヴァクスの『凶手』以来の熱さだ)、馳星周が絶賛するのはきわめて当然のこと。それ以外の向きにも、もっともっと評価されてしかるべき作家だと思う。

(※『残酷な夜』のタイトルで扶桑社からも刊行)

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ゼウス -人類最悪の敵

ホラー

人類 vs 怪獣軍団の死闘

大石英司 / ノン・ノベル

 北海道で起きた謎の事故。その後、UFOに誘拐されたという女性の胎内を食い破って出現した謎の生物は、山中へ逃げた。やがて、その生物は増殖し、2mの巨体と驚異的な運動能力をもって、群れをなして人類を襲う。やがて世界各地で同様の事件が起き、その生物は「ゼウス」と命名された……。

 群をなす怪獣が北海道に出現……というわけで、思い出すのは「ガメラ2 レギオン襲来」。もっとも、ゼウスはレギオンみたいに巨大化するわけではない。そして何より、お子様向け怪獣映画では絶対に描写できない特性の持ち主だ。

 そう、ゼウスは女性を襲う。そして胎内で増殖するのだ。強姦超獣ゼウス、とか書いてしまうと「ウルトラマンA超獣大図鑑」のような趣きがあるが、下手するとウルトラセブン第12話の仲間入りだ。

 これを迎え撃つ人間側は、というと、主に北海道住民と自衛隊の活動を中心に描かれる。市長の座を狙っていた一市会議員が、たまたまリーダーシップを発揮して、町を要塞化してゼウスの侵入を防ぐことに成功したり、自衛隊の元レンジャーとその息子との関係が描かれたり。ただし、日本政府があまりに有能なのは少々リアリティを欠いていたように思う。まあ、十分デスペレートな状況なので、物語を根幹から損なうことはない。

 真っ先に連想したのは梅原克文。ジェットコースターのように進む物語、型通りの登場人物。とはいえ、それがあながち欠点とはいえない。「典型的」な人物が多いおかげで、物語は非常に分かりやすいものになっている。ただし、ゼウス出現の背景までもがかなり陳腐になってしまったことは否めないが。

 「怪獣もの」に好意的な人間ならば、それなりに楽しく読める怪獣パニック小説。

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内なる殺人者

ノワール

心に闇を抱えた男が語る、「おれたちみんな」の物語

内なる殺人者 おれの中の殺し屋
河出文庫 (→ 河出書房新社)/ 村田勝彦訳
扶桑社ミステリー / 三川基好訳

 世の中には二種類の人間しか存在しない──ジム・トンプスンの小説を読んだことがある者、そして読んだことのない者。ちなみに、ジム・トンプスン本人という第三の分類が存在したのは1977年までのことである。

 最近は『ポップ1280』や 『サヴェッジ・ナイト』(扶桑社版では『残酷な夜』)で日本での評価も高まりつつあるトンプスンの、鳥肌の立つようなスリリングな一品である。

 『ポップ1280』と同じく、主人公ルー・フォードは田舎町の保安官。建設業者への復讐をきっかけに、次から次へと殺人を繰り返すはめになった彼は、だんだんその歪んだ内面をさらけだす……というストーリー。

 何よりも戦慄を覚えるのは、ルー・フォードという「内なる殺人者」を抱えた男の造形である。まっとうな保安官と異常な殺人者とが渾然一体となったその人格。それらはジキルとハイドのような二重人格として区分けされるようなものではなく、いたってシームレスにつながっている。

 しかも、そんなフォードの内面が一人称で綴られる。歪んだ衝動を抱えた男のふるまいが、その内面から描かれる。両刃の剣のような試みだ。うまくいけば傑作だが、一歩間違えば読むにたえない作品になってしまう(実際、異常殺人者の一人称でこれほど効果を上げているものといえば、すぐに思い浮かぶのはジェイムズ・エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』くらいだ)。

 たいていの人々はレクター博士の精緻な殺戮を、娯楽としてたのしむことができる──彼は観客を驚かせ、楽しませるために入念に造形された「怪物」であり、生身の人間とは異なる存在だ。我々の日常とは切り離されたところに生きている一種のヒーローである。だからこそ多くの人々が、『ハンニバル』のあの冒涜的な結末に愕然としたのだろう(人間性に対する冒涜ではない、レクターに対する冒涜だ)。

 だが、ルー・フォードのいきあたりばったりの凶行は、娯楽として消費されることを頑なに拒んでいる。内に殺人者を抱えている男だが、その行動原理は異様なまでに筋道が通っている。ルー・フォードは「怪物」ではない──人間だ。平凡なサイコ・スリラーの書き手と違って、トンプスンは「狂気」という便利なキーワードを使ってルー・フォードを「怪物」に仕立てるようなことはしない。

 これは「怪物」の物語なんかじゃない。結びの言葉にあるような、「おれたちみんな」の物語だ。暴力の渦巻く世界では、人々の内面もまた暴力に侵されてゆく。

 世の中には二種類の人間しか存在しない──自分の「内なる殺人者」の存在に気づいている者、そして断じてその存在を認めない者。

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彼らは廃馬を撃つ

ノワール

一瞬の虚栄、一瞬の死

ホレス・マッコイ / 常盤新平訳 / 角川文庫
 物語は裁判所で幕を開ける。ひとりの男が、女を殺した容疑で裁かれ、まさに判決を下されようとする瞬間。男の脳裏をよぎったのは、女との出会い、苛酷なマラソン・ダンスへの出場、そして殺人……。

 アメリカ。不況のさなかの30年代。夢を求めてハリウッドにやってきた男女が、狂躁のマラソン・ダンスに参加する。目指すは1000ドルの賞金、そして映画関係者の目にとまること。

 マラソン・ダンスは苛酷な競技だ。何組もの男女が1時間50分踊り続け、その後はわずか10分間の休憩。そしてまた踊り続ける──自分たちが脱落するか、あるいは最後の一組になるまで。疲労がたまった出場者たちの行動はおかしくなる。意識は朦朧として、パートナーには憎しみを抱くようになる。そんな彼/彼女たちの奇行を見に集まる観客たち。

 主人公の男女は、わずかなチャンスに賭けて、時代の徒花のようなこの見せ物競技に挑戦する。

 印象的なタイトルだ。虚栄の裏側で、スポットライトを浴びることなく消えてゆく男女をクローズアップした作品である。あるいは、夢みることとその残酷な結末を描いた作品である。

 文体がハードボイルド、というわけではない。殺人事件が描かれ、それは物語の重要な位置を占めているが、かといって正面きって犯罪が描かれるわけでもない。にも関わらず、この作品に漂うのはハードボイルド、あるいは暗黒小説と同種の空気だ。

 男はなぜ女を殺さねばならなかったのか、という一点に向かって収斂する物語は、無駄なく進んでゆく。その過程で浮かび上がるのは、マラソン・ダンスの持つ俗悪さだ。その俗悪な環境の中で、必死に這い上がろうとする男女だ。そして観衆と参加者は対比され、持てる者と持たざる者の格差が浮き彫りになる。

 絶望的なフィニッシュではある。しかし殺し殺される関係でありながら、二人の間には温かみが感じられ、それは男の最後の言葉に結晶している。

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鮮血色の夢

ニューヨークで繰り広げられる、民族の血と憎悪の戦い

マイクル・コリンズ / 木村仁良訳 / 創元推理文庫

 片腕の私立探偵フォーチューンが依頼されたのは、ユーゴスラヴィアから亡命してきた老人の捜索。教会に張り込んでいた彼の見込み通りに姿を現した老人だったが、フォーチューンが声をかけると夜の底に消えていった……。

 舞台は70年代のニューヨーク、枠組みは典型的私立探偵小説、でも内容はまるで90年代の小説みたいだ。

 本書に登場する人々の多くが東欧系である。主人公の探偵フォーチューンもポーランド系だ。彼が創作を依頼される老人はユーゴスラヴィア出身。老人の娘婿はリトアニア人。ハンガリー動乱に参加した、ハンガリーからの亡命者も登場する。

 祖国を失い、その解放に憑かれた人々。リトアニアの土を一度も踏んだことのないリトアニア青年が戦いを叫び、動乱で戦った老将が解放を訴える。これは、そんな人々が織りなすドラマだ。圧制と憎悪の歴史に翻弄された人々の悲劇だ。

 クライマックスで明かされる真相は、民族紛争の歴史と、その重みを負った人々の業を感じさせ、実に衝撃的だ。

 本書の舞台はニューヨークだが、登場人物たちの心のよりどころの在処を思えば、本当の舞台はニューヨークではない。抑圧するものとされるものの構図がくっきりと浮かび上がる東欧諸国……あるいは、もっと普遍的な世界そのもの。

 ちなみに、ここに描かれるのとよく似た「抑圧者の正史-被抑圧者の叛史」というモチーフを多用する船戸与一の作家デビューは、本書の発表からほんの数年後のことである。冷戦構造を下敷きにした小説があふれる中で、船戸与一もコリンズも「その先」を見ていたのかもしれない。

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