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虚船-大江戸攻防珍奇譚

SF

矢追純一的宇宙人と時代小説が、ジュニア小説*1の上で出会う

 時は江戸時代。日本各地で空に浮かぶ光る物体が目撃され、また物体に人が誘拐される事件や、家畜が切り刻まれる事件が続発していた。幕府は調査のためにひそかに「青奉行」という機関を設けて、光る物体---「虚船」の謎を調査していた。

 家畜が切り刻まれる現象は「キャトルミューティレーション」、宇宙人に誘拐されて謎の手術を施される現象は「アブダクション」として、矢追純一などの著書でしばしばとりあげられるできごとである。

 本書は、そんなキャトルミューティレーションやアブダクションをやらかす宇宙人と、幕府の秘密組織との戦いが描かれる(幕府が宇宙人と密約を結んだりはしていないようだ)。宇宙人に誘拐された人間には、ちゃんと謎の物体が体内に埋め込まれる(何が「ちゃんと」だか)。

 アイデアとしては非情に面白い。ただし小説としての描写が弱いと、この手のバカバカしい思いつきによりかかった作品はあっという間に読むに耐えないものになってしまう。本書では、地に足のついた時代小説的な描写と、ジュニア小説的な「軽さ」が同居している。このアンバランスな取り合わせ、一歩間違えば支離滅裂になりかねないと思うが、そこは巧みに乗り切っている。もっともクライマックスには巨大ロボットらしきものまで登場するので、時代小説好きには不満もあるだろう(そんな人がこの文庫を手に取ることはあまりないと思うが)。

著者はイギリスのTVシリーズからアイデアを得たそうだが、クライマックスの描写などを読むかぎり、国産特撮ものの影響も強いような気がする。

*1 : 2008/01補足:当時の私にとって、「ライトノベル」という語句はまだなじみのないものだった。

不器用な愛

小説

彼と彼女の世界の認識

ISBN:4562033045エマニュエル・ベルナイム / 稲松三千野 / 原書房

 パーティの席で出会ったエレーヌとロイックのふれあいとすれ違いを描く恋愛小説。

 ドラマチックなできごとはほとんど起きない。二人がディナーを共にし、あるいはベッドを共にし、あるいは会う約束が反故になり、という様子が淡々と語られる。

 主に描かれるのは二人の行動、そして物事。そのディテールがつぶさに描かれる。二人の心の動きの大部分は、こういった事物を通じて語られる。もちろん内面描写もなくはない。だが、二人がお互いをどう考えているかということすら遠回しにほのめかされる程度である。

 行動を通して人物を描くというと何だかハードボイルドみたいだが、そういえばこの作品にはダシール・ハメットの作品のようなそっけなさも感じられる。ハメットの切り詰められた言葉が、実はきわめて密度が高いということはよく言われているが、この小説もそうだ。

 ただし、ハメットがあくまでも客観的な描写を目指したのに対し、この小説での事物の描写は、あくまでも二人のどちらかの視点に立ったものである。彼または彼女が、世界をどのように知覚したのか。彼または彼女がなにを認識し、何を認識しなかったのか。物事の描写には、そういう意味あいがこめられているようにも見える。行動を通して人物を描くというよりは、行動と知覚を通して人物を描く、といったところか。

 こういった面に読者の意識を誘導したいからだろうか、この小説では二人の会話らしい会話はほとんど出てこない。静けさは緊張をさらに高める。

 いつもスティーヴン・キングに代表されるようなアメリカ産娯楽小説、あるいは最近の国産ミステリーといった饒舌な小説ばかり読んでいるせいか、こういうある意味ストイックな作品はとても新鮮に感じられた。ヒロインの歯に野菜の切れ端がくっついてる様子までもが描かれる小説も、そんなにないような気がする。私がふだん読んでいるものが偏っているだけかもしれないが。

カノン

ノワール

妄想ダメ親父が拳銃片手に大暴走。クソどもは皆殺しだ!

カノンギャスパー・ノエ / 奥田鉄人 / 斎藤敦子訳 / 角川書店

 ATTENTION!

 こいつはヤバい作品です。ページを繰るときはご注意を。

 生まれて間もなく親に捨てられ、娘に手を出そうとした男に暴力をふるって刑務所に行き、出てからはヒモとして生きている中年男。信じられるのは自分だけ。アラブ人とホモ野郎に敵意をつのらせ、生き別れの娘の姿を追い求める男。ヒーローと呼ぶにはあまりにも薄汚いダメ人間だが、どこかハードボイルドな空気を身にまとっているのも事実だ。

 世間とうまく付き合えずに生きてきたそんな中年男が、ふとしたきっかけで暴発する。この男の世界観はいびつで自分勝手で冷酷そのもの。

 ATTENTION!

 世間の常識からは許されないようなカタルシスを味わえます。良識派を自認されている方はご注意を。

 クライマックスの妄想親父のキレ具合は果てしなく官能的ですらある。

 これ、ギャスパー・ノエによる映画を奥田鉄人がコミック化……というのは正しくないな、コミック・ノベル化したものである。小説でもあり漫画でもあり、という表現方法がここではかなり効果を上げている。主人公の顔はその頑なさをあますところなく表現しているし、彼のいかれた思考を綿々と綴る文章も読ませる。タイポグラフィもかなり自由に使いこなしている(特にクライマックス)。

 鬼畜そのもののフィニッシュは、それでも哀切に満ちている。

 かくも刺激的な作品が世に出るのは楽しいが、こんな作品がリアリティを帯びてしまう現実というのは……。

消えた女

都会の闇が浮かび上がる大江戸ハードボイルド

藤沢周平 / 新潮文庫

 しがない版木の彫師・伊之助は、かつては凄腕の岡っ引きだった。だが、女房が男と心中して以来、浮かない日々を過ごしていた。だが、弥八親分の娘が失踪したと聞き、彼は重い腰を上げて、江戸の町にその行方を追うことになる……。

 時代小説作家・藤沢周平は一方で海外ハードボイルドの愛読者でもあったようで、この作品にはそんな作者の嗜好が如実に反映されている。

 いわくつきの過去を背負った元岡っ引きという伊之助のプロフィールは、60年代以降のアメリカ私立探偵小説に描かれる典型的な主人公像(一般市民を巻き添えにしてしまった元刑事など)と重なり合う。例えば、本書で伊之助はほかの岡っ引きから「もう一度十手を持たないか」と誘われるが、その姿はローレンス・ブロック描く元刑事のアル中探偵マット・スカダーが、ニューヨーク市警の刑事に「あんたは今もお巡りなんだよ」と復職を薦められる場面に符合する。

 そして作中に描かれる事件もまた、きわめて私立探偵小説的である。

 謎解きミステリの代表的な事件を「密室殺人」とするならば、私立探偵小説のそれは「失踪」だ。ブラックホールに飲み込まれたかのように、身近な人物が姿を消す。依頼を受けた私立探偵がその行方を追ううちに、失踪者が姿を消さざるをえなくなった事情が浮かび上がる。それはたいていの場合、社会が抱えるさまざまな問題に結びついている。失踪者を飲み込むブラックホールは、社会のひずみから生み出されるのだ。

 ほとんどの私立探偵小説が都会を描いているのは、その舞台としてそれなりに規模の大きな社会が必要だからだ。失踪者を飲み込んでしまえるくらいに大きく、複雑化した社会が。その点、当時世界有数の大都市だった江戸には、十分「失踪」の舞台になる資格が備わっている。

 ハードボイルドとはジャンルと言うよりは作品のスタイルだ。主人公はどこか社会体制に順応しきれない人物で、時には正真正銘のアウトローのこともある。その社会へのまなざしは、決して上から見下ろすものではなく、下から見上げる性質のものだ。

 本書が、江戸を舞台にしながらもなぜかアメリカの私立探偵小説を連想させるのは、作者がそういったハードボイルドの核を捉えていたからだろう。

幻の終わり

幻の終わり キース・ピータースン/ 創元推理文庫

 昔気質の新聞記者ウェルズは、有名な海外通信員のコルトと出逢った。意気投合したふたりは、酔いつぶれるまで酒を呑む。その翌朝、コルトは謎の男に殺されてしまう。殺人の目撃者となったウェルズは、酩酊したコルトが口にした「エレノア」という女の名前を手がかりに、彼の過去を求めてニューヨークをさまよう。だが、その身に危険が迫る……。

 新聞記者ウェルズが登場するシリーズ第一作『暗闇の終わり』が絵に描いたような私立探偵風ハードボイルドだったので、てっきりこの本もそうだと勘違いしていた。だがこれは、作者がたくさん書いているようなスリラー/サスペンスなのだ。

 読者を飽きさせることなく次から次へと起きる事件。主人公ウェルズは思索型というよりは行動型だが、その行動の背景は見えづらい。コルトが語ったエレノア像を、調査の過程で勝手にふくらませて、妄想をたくましくしているようにも見える。読者がどれほど感情移入できるのかは、どれほどウェルズの妄想について行けるかにかかっている、と言っても過言ではないだろう。

 ピータースンがもたらす、この「妄想誘発→炸裂」効果がどんな事態を引き起こしたのか知りたければ、シリーズ最終作『裁きの街』解説を読んでみよう。シリーズの根幹を揺るがすような凄いことになっている。おじさんの妄想力をあなどってはいけない。

 この作品がこんなにもおじさんの妄想力を喚起するのは、やはりエレノアの描き方の巧さのなせる業だろう。彼女は小説には直接あらわれず、人の言葉や新聞記事を通してイメージが伝えられるのだが、これがさほど綿密に描かれているわけではない。だから、あれこれ想像する余地が出てくるのだ。

 最近の娯楽小説(特にアメリカ産)は重厚長大化が目立つ。スティーヴン・キングの影響だろうが、人物や事物をじっくりと描写しているものが多いように思う。そういう小説も悪くないが、こんなふうに「はっきり描かない」ことによって、主人公はもちろん読者の想像力をも引きずりだす小説は実に魅力的だ。

 丸見えよりも、見えそうで見えないほうがそそられるというのは、やはり真理なのだ。