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ヴァーチャル・ライト

SF
ヴァーチャル・ライト ウィリアム・ギブスン / 浅倉久志訳 / 角川文庫

 「サイバー」という言葉、最近はブームの尻馬に乗ってあわてて書かれたとおぼしきビジネス書にまで出てくるくらいだ。「サイバーパンク」も、もう過去のものなのかもしれない。本書は、サイバーパンクの中心にいた作家の、ブームの狂騒が去ろうとする頃に発表された作品だ。

 『ニューロマンサー』三部作よりも、より現代に近い近未来が舞台なので、ある意味では親しみやすいかもしれない。

 視神経にじかに作用することによって映像を見せるヴァーチャル・ライト。その中に記された内容のために起きる、ヴァーチャル・ライトをめぐる争奪戦。

 読むたびに思うが、ギブスンの作品って、ストーリーそのものはやたらとありふれたスリラーなのだ。たいていはミステリタッチの冒険活劇である。この作品も、「宝物の争奪戦」という、『マルタの鷹』をはじめとして、これまでにいくつも描かれてきた物語だ。

 ストーリーはあくまでも普通のスリラー。ギブスンならではの味は、あくまでも背景だの細部だのの描き方にある。

 この小説の場合、やはり印象に残るのは大地震で崩壊したサンフランシスコの一角に生まれる奇妙な「橋」の文化である。ジャンクを取り込んだこのアナーキーな空間は、大阪大学の社会学者・山崎によって、赤瀬川源平の「トマソン」にたとえられる。そしてこの空間は、21世紀初頭の「超震災ゴジラ」による崩壊からの復興を遂げた東京--再び秩序が支配するようになった空間--と対置される(それにしてもギブスン、相変わらず日本のみょーな部分に異様に詳しい。『ガンヘッド』なんて映画、たいていの日本人は覚えてないか、そもそも知らないと思うぞ)。

 ギブスン自身とは関係ないが、翻訳者の違いもかなり印象に残る。故・黒丸尚のやたらと個性的な訳から、浅倉久志の手堅い訳になると、意外と読んでいるときの感覚が変わる。黒丸尚のは良くも悪くも個性的なので、ある意味「サイバーパンク」のイメージを決定づけていた文体なのだ。

バットマン 究極の悪

ミステリ
バットマン 究極の悪 アンドリュー・ヴァクス / 佐々田雅子訳 / 早川書房

 バットマンことブルース・ウェインがたまたま知り合ったソーシャルワーカーの女性・デブラ。彼女を通じてバットマンはゴッサムの街を蝕む悪の一つ、児童虐待のことを知る。さらに児童虐待問題を追ううち、彼は両親の死に絡む謎、そして巨大な児童売春組織を追うことになる……。

アウトロー探偵バークのシリーズで知られるヴァクスが、アメリカのヒーローを語る上で欠かせない存在・バットマンをヒーローに据えて、彼の一貫したテーマである児童虐待問題を取り上げた作品。

バークというアメコミ風の要素もあるダークなヒーローを描いてきただけあって、バットマンというもう一人のダークなヒーローを描く腕前はなかなかである。ストーリーも、シンプルながらゴッサムから東南アジアの架空の小国へと展開し、なかなか読みごたえがある。

 なお、巻末には児童虐待問題に関する短い文章と、市民団体の連絡先が掲載されている。そう、ヴァクスは本気なのだ。実際、彼の本業はこの問題を専門に扱う弁護士なのだから。

 そして、この「問題意識の過剰なまでの強さ」こそが、ヴァクスが「娯楽作家」に徹し切れない一因でもある。彼の小説には必ずといっていいほどこの問題が取り上げられ、その問題意識の強さゆえに、児童虐待問題についての記述が物語を侵蝕してしまう。まるで島田荘司が日本人論と冤罪の話をせずにはいられないように。

 簡単に言ってしまえば「説教臭い」のだ。初期の作品では、その説教臭さを物語の力で覆い隠すことができた。だが、シリーズを重ねるうち、どうしても説教臭さが鼻につくようになってくる。

 ヴァクスという作家、腕前は確かなのだから(たとえば、この人の短編はノワール風の翳りを帯びた、どこか幻想的な美しさに満ちている。短編集があればぜひ邦訳希望)、自身の問題意識をもっと洗練させた形で作品に描きこんでほしいのだが……

バトル・ロワイアル

小説
バトル・ロワイアル 高見広春 / 太田出版

 ホラー大賞選考の席上、林真理子が不倫称揚本の著者とは思えないような道徳心あふれるコメントとともに切り捨ててしまった作品。

 ……というより、「深作欣二が映画化します」って言ったほうがいいのかな、最近は。

 この本が書店に並んでから、もう1年以上が経つ(当初はスキャンダル性で売ろうとするかのような帯をまとっていた)。いろいろなところで非常に高く評価された。

 それと同時に、この作品の持つ重大な欠点も、絶賛の嵐の吹き荒れるなかで常に指摘されていた。

 たとえば我孫子武丸氏は、本書の舞台は「ファシズムが成功した日本」というパラレルワールドのはずなのに、登場する中学生も描かれる事象も現代日本そのままという不整合を、「物語にノセてくれない」原因として挙げている(http://web.kyoto- inet.or.jp/people/abiko/diary.htm 、2000年6月4日分)。

 確かに、そういう点が、この作品に熱狂したかもしれない人々を遠ざけているのだろう。読者が世界設定のあいまいさを意識してしまうというのは、異世界を描いた小説としては明らかにマイナスだ。

 だが、私がこの作品に「恐怖」を感じたのは、むしろこの「異世界らしくない異世界」という中途半端な背景のためだった。

 本書に描かれる全体主義は、「現代日本とまったく異なる世界での全体主義」ではない。この全体主義を支えているのは「みんなそうしているから」「誰もやめようと言わないから」という、日本人なら頻繁に遭遇するであろう意思。……そう、これは異世界の話ではない。すぐそこにある全体主義なのであり、その身近さゆえに恐怖を感じることができるのだ(たぶん、先日の選挙で自民党に投票したような人には一生縁のない恐怖感だろう)。中途半端に現代日本の風俗がそのまま描かれていることも、「身近さ」を際立たせるのに一役買っている。

 この恐怖は、たぶん偶然が生んだものだろう。だから、「選考委員のコメントはさておき、この冒険活劇は確かに『ホラー大賞』じゃないよな」というのが読んだ直後の感想だった。

 でも、「みんなそうしているから」というのが何かの動機として通用してしまう社会に住んでいると、そしてそれがますます強く感じられるようになってくると、こういう恐怖を描いた作品こそ「ホラー」だろう、という気がしてならない。

あ・じゃ・ぱん!

小説
上巻下巻矢作俊彦 / 新潮社

 敗戦後、米ソによって東西に分割された日本。東側の首都は東京、西側の首都は大阪と定められた。時は流れ、昭和天皇の崩御に沈む京都に一人のCNN特派員がやってきた。彼の目的は、東側最大の反体制組織のリーダー・田中角栄との会見だった……。

 吉本一族がお笑いの世界ではなく政界に君臨し、ボートピープルとしてアメリカに流れついたシゲオ・ナガシマがメジャーリーグのヒーローとなり、和田勉が東側の国営放送のスタッフとして(やっぱり駄洒落を飛ばしながら)働いているもう一つの日本が舞台。いたるところに悪趣味なパロディがあふれかえっているものの、そこには奇妙なリアリティが漂っている。そのリアリティを生んでいるのは、作者の意地悪な視線だ。

 たとえば、東側の日本に君臨する二人の政治家は……中曽根康弘と渡辺美智雄。体制がどうであれ、やっぱりこの人たちが権力を握ってしまうというのは、一見ふざけているようでいて、実はかなりありそうな話ではないだろうか(ちなみに、渡辺美智雄はやっぱり失言のせいで失脚する)。

 「日本が米ソによって分断された」という設定の小説は、仮想戦記などには珍しくない。が、そういう小説に描かれる「社会主義国・日本」のほとんどが「地名と人名を日本風にした北朝鮮」や「地名と人名を日本風にした東ドイツ」だったりする。それに比べると、本書に描かれるのはまぎれもない「もう一つの日本」である。なにしろ、両国の間に存在するのは「東西冷戦」ならぬ「東西談合」なのだ。

 その談合のなかに繰り広げられる謀略劇が本書のストーリーの根幹。徹底したパロディという枝葉が生い茂っているために見えづらいが、この謀略がかなり壮大なスケールで、下手すりゃ荒唐無稽になってしまうような素敵なシロモノ。脂の乗っていたころのロバート・ラドラム……というよりは、悪の秘密結社の悪だくみに近いのだ。でも、これがパロディまみれの本書の雰囲気にはよく似合う。

 ちなみに、何人かの小説家も史実と異なる形で登場する。東側で反体制ゲリラとして戦う三島由紀夫。「史実」より長生きしていくつかの作品を書いた小栗虫太郎。そして何より、あのアメリカの……おっと、これは言わないでおこう。多くのミステリ読者にとって、好きであれ嫌いであれかなり大きな存在であるはずの作家が、意外な運命をたどっていることが最後の最後に明らかにされる。

 散りばめられた小ネタでいちばん笑えたのが「日成のおばさん」。あまりにもバカバカしく愉快なので、どんなネタかは教えない。

そしてぼくはママの愛人になった

小説
そしてぼくはママの愛人になった ファビエンヌ・ベルトー / 稲松三千野 / 原書房

 なかなか強烈な題名である。原題はこんな意味ではないのだけれど。『バカなヤツらは皆殺し(原題は英訳すると"fuck me"!)』もそうだったが、このシリーズ(現代フランス小説新世代)の邦題はなかなか気が利いている。

 念のためことわっておくが、母子近親相姦ポルノではない。

 少年の12歳の誕生日、目の前でママがパパを殺した……というところから始まる、少年とその母親の物語。こう書くとなんだか重苦しい雰囲気を予感するかもしれない。

 ところが。

 どんどんろくでもない方へと転がってゆくストーリーそのものは確かに痛々しい。だが、それを綴る文体は軽妙、そしてどこか爽快感が漂う。

 というのも、この作品はひとりの少年の成長を描く物語でもあるからだ。幼くして世間のさまざまな面を見ることになった彼は、涙を流すことはまったくない。とはいえ、今日びの12歳はこんなに無邪気じゃないだろ、とツッコミたくなるような一面も見せる。そんな彼が、さまざまなできごとに遭遇しながら、少しずつ変わってゆく。その変化は、健全な社会からすれば「成長」とは呼びがたいものかもしれないが、しかし彼の世界においてはまぎれもない「成長」である。

 そう、彼の成長のかたちが世間と相容れないものであるからこそ、この小説は悲痛なのだ。

 そして、とにかく記憶に残るのは母親の人物像。『バカなヤツらは皆殺し』の少女たちもそうだったけど、世間の荒波から身を守るどころか、世間に自分をむき出しにして生きている。息子が母を守ろうとすればするほど、事態はますます悲惨な方向に転がってゆく。

 そういえば、『永遠の仔』の3人の誰かの母親にもこんなところがあったけど、『永遠の仔』の母がストーリーを進めるための「機能」に過ぎないのに対し、こちらの母はストーリーの原動力そのものだ。

 そんなわけで、テイストはどこか『バカなヤツらは皆殺し』に通じるものがある(あんなに人は死なないけど)。最近のフランスではこういうのが流行りなのだろうか。それとも訳者の趣味だろうか?

 このシリーズ、今後も目が離せない。