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愛はいかがわしく

ノワール

負け犬ペテン師、人生張った大バクチ

愛はいかがわしく ジョン・リドリー / 角川書店

 なにをやっても裏目に出る、って時がある。一度や二度ならいいけれど、いやと言うほどそんな目に会うやつもいる。

 本書の主人公、ジェフティもそんな不運な連中の一人だ。成功を夢見てハリウッドに出てきたはいいけれど、今じゃケチな寸借詐欺でその日をしのいでいる。女には縁はなく、友は酒とバーテンだけ。おまけに借金地獄に首まで浸かっているときたもんだ。

 物語の冒頭、ジェフティは高利貸しの用心棒に指をへし折られてしまう。次は命だ、と脅されながら。かくしてこの冴えない詐欺師は、借金地獄から抜け出すべくあの手この手を繰り出すが……

 半端じゃなく切羽詰った状態に置かれているジェフティの様子を見ていると、なぜか西原理恵子のマンガを思い出してしまう。彼女が描くダメ人間同様、ジェフティもかなり情けない(でもどこか憎めない)男なのだ。

 物語は、そんな負け犬が一念発起して大活躍という、お約束どおりの展開をたどる。もっとも、具体的に何をするのかは知らないほうがいい。だから、カバー見返しのあらすじ紹介は読まないほうがいいだろう。

 人生を賭けた大勝負に挑むジェフティの内面は前半とは打って変わってかっこよさすら漂うが、でもどこか憎めない情けなさは相変わらず。それはラストシーンにもちゃんと出ている。

 わずかな出番でもしっかりと印象を残す脇役たち。

 ハードボイルド・ヒーローみたいに減らず口を叩くのはいいけど、そのたびに酷い目に会う主人公。

 そして何より饒舌な語り口。

 会話だけでも十分に楽しませてしまうところは、作者の映画畑での経験がものを言っているのだろうか。映画の影響が濃厚な語り口は、エルモア・レナードを連想させる。

 もっとも、作者のハリウッドに抱く感情は複雑だ。後半、ジェフティが仕掛ける大勝負の設定にも、作者の複雑な愛憎がにじみ出ている。

 この作者の邦訳には、ほかに『ネヴァダの犬たち』(ハヤカワ文庫NV)という作品がある。こちらは言葉を切り詰めた、ジェイムズ・M・ケインばりの犯罪小説(オリバー・ストーン監督で映画化されているらしい)。こちらもオススメ。

サヴェッジ・ナイト

ノワール

物語そのものが壊れてゆく、小さな破滅の物語>

ISBN:4881357301 ジム・トンプスン / 門倉洸太郎訳 / 翔泳社

 小男の殺し屋リトル・ビガーは、ある裁判の重要証人の口封じに雇われて、田舎町にやってきた。学生を装って、標的の家に下宿しながら、暗殺の機会をうかがっていたが、標的の妻、足に障害を持つ女、世話好きの老人など、一筋縄ではいかない人々が彼の周囲に現れる……。

 ゆがんだ世界のゆがんだ物語。誠実にして邪悪な主人公もさることながら、自堕落な標的の妻、片足に障害を持つ女といった女性陣にも、とらえどころのない感覚が漂っている。そして何より、主人公に親切にしてくれる老人。善意に満ちていながら、その善意のあらわれかたはどこか不気味だ。

 終盤の壊れ具合は戦慄モノ。単純なクライム・ノヴェルに見せて、結末の破天荒な展開からはかなり精緻な構造が浮かび上がる。

 巻末には馳星周の絶賛文章がついているが(エルロイの『ホワイト・ジャズ』、ヴァクスの『凶手』以来の熱さだ)、馳星周が絶賛するのはきわめて当然のこと。それ以外の向きにも、もっともっと評価されてしかるべき作家だと思う。

(※『残酷な夜』のタイトルで扶桑社からも刊行)

内なる殺人者

ノワール

心に闇を抱えた男が語る、「おれたちみんな」の物語

内なる殺人者 おれの中の殺し屋
河出文庫 (→ 河出書房新社)/ 村田勝彦訳
扶桑社ミステリー / 三川基好訳

 世の中には二種類の人間しか存在しない──ジム・トンプスンの小説を読んだことがある者、そして読んだことのない者。ちなみに、ジム・トンプスン本人という第三の分類が存在したのは1977年までのことである。

 最近は『ポップ1280』や 『サヴェッジ・ナイト』(扶桑社版では『残酷な夜』)で日本での評価も高まりつつあるトンプスンの、鳥肌の立つようなスリリングな一品である。

 『ポップ1280』と同じく、主人公ルー・フォードは田舎町の保安官。建設業者への復讐をきっかけに、次から次へと殺人を繰り返すはめになった彼は、だんだんその歪んだ内面をさらけだす……というストーリー。

 何よりも戦慄を覚えるのは、ルー・フォードという「内なる殺人者」を抱えた男の造形である。まっとうな保安官と異常な殺人者とが渾然一体となったその人格。それらはジキルとハイドのような二重人格として区分けされるようなものではなく、いたってシームレスにつながっている。

 しかも、そんなフォードの内面が一人称で綴られる。歪んだ衝動を抱えた男のふるまいが、その内面から描かれる。両刃の剣のような試みだ。うまくいけば傑作だが、一歩間違えば読むにたえない作品になってしまう(実際、異常殺人者の一人称でこれほど効果を上げているものといえば、すぐに思い浮かぶのはジェイムズ・エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』くらいだ)。

 たいていの人々はレクター博士の精緻な殺戮を、娯楽としてたのしむことができる──彼は観客を驚かせ、楽しませるために入念に造形された「怪物」であり、生身の人間とは異なる存在だ。我々の日常とは切り離されたところに生きている一種のヒーローである。だからこそ多くの人々が、『ハンニバル』のあの冒涜的な結末に愕然としたのだろう(人間性に対する冒涜ではない、レクターに対する冒涜だ)。

 だが、ルー・フォードのいきあたりばったりの凶行は、娯楽として消費されることを頑なに拒んでいる。内に殺人者を抱えている男だが、その行動原理は異様なまでに筋道が通っている。ルー・フォードは「怪物」ではない──人間だ。平凡なサイコ・スリラーの書き手と違って、トンプスンは「狂気」という便利なキーワードを使ってルー・フォードを「怪物」に仕立てるようなことはしない。

 これは「怪物」の物語なんかじゃない。結びの言葉にあるような、「おれたちみんな」の物語だ。暴力の渦巻く世界では、人々の内面もまた暴力に侵されてゆく。

 世の中には二種類の人間しか存在しない──自分の「内なる殺人者」の存在に気づいている者、そして断じてその存在を認めない者。

彼らは廃馬を撃つ

ノワール

一瞬の虚栄、一瞬の死

ホレス・マッコイ / 常盤新平訳 / 角川文庫
 物語は裁判所で幕を開ける。ひとりの男が、女を殺した容疑で裁かれ、まさに判決を下されようとする瞬間。男の脳裏をよぎったのは、女との出会い、苛酷なマラソン・ダンスへの出場、そして殺人……。

 アメリカ。不況のさなかの30年代。夢を求めてハリウッドにやってきた男女が、狂躁のマラソン・ダンスに参加する。目指すは1000ドルの賞金、そして映画関係者の目にとまること。

 マラソン・ダンスは苛酷な競技だ。何組もの男女が1時間50分踊り続け、その後はわずか10分間の休憩。そしてまた踊り続ける──自分たちが脱落するか、あるいは最後の一組になるまで。疲労がたまった出場者たちの行動はおかしくなる。意識は朦朧として、パートナーには憎しみを抱くようになる。そんな彼/彼女たちの奇行を見に集まる観客たち。

 主人公の男女は、わずかなチャンスに賭けて、時代の徒花のようなこの見せ物競技に挑戦する。

 印象的なタイトルだ。虚栄の裏側で、スポットライトを浴びることなく消えてゆく男女をクローズアップした作品である。あるいは、夢みることとその残酷な結末を描いた作品である。

 文体がハードボイルド、というわけではない。殺人事件が描かれ、それは物語の重要な位置を占めているが、かといって正面きって犯罪が描かれるわけでもない。にも関わらず、この作品に漂うのはハードボイルド、あるいは暗黒小説と同種の空気だ。

 男はなぜ女を殺さねばならなかったのか、という一点に向かって収斂する物語は、無駄なく進んでゆく。その過程で浮かび上がるのは、マラソン・ダンスの持つ俗悪さだ。その俗悪な環境の中で、必死に這い上がろうとする男女だ。そして観衆と参加者は対比され、持てる者と持たざる者の格差が浮き彫りになる。

 絶望的なフィニッシュではある。しかし殺し殺される関係でありながら、二人の間には温かみが感じられ、それは男の最後の言葉に結晶している。

けだもの

ノワール
ISBN:4167527626 ジョン・スキップ&クレイグ・スペクター / 文春文庫 (解説)

 これは人狼による血みどろの殺戮劇を描くホラーだ。
 激しい情念がからみ合う恋愛小説だ。
 登場人物が自己の内なる獣性と対峙する暗黒小説【ノワール】だ。
 この作品のスタイルはスプラッタパンクと呼ばれる。スプラッタパンク=血まみれ映画【スプラッタ】+爆走音楽【パンク】。八〇年代アメリカに出現した、若手ホラー作家が中心の、世間の良識に楯突くようなムーブメントだ。彼らの作品はスプラッタ映画やB級SF映画、そしてロックからの影響が強く、またどぎついエロス&バイオレンス描写で飾りたてられている。ヤバさに満ちたそのスタイルは、お上品な「良識派」の嫌悪と軽蔑に満ちたまなざしを一身に浴びる。古典的な怪奇小説を端整なクラシック音楽とするならば、これは狂騒のヘヴィ・メタル。首から上よりも、腰から下を刺激するようなしろものだ。
 スプラッタパンクは、古典的な怪奇小説と異なり、未知のなにかに対する恐れの感覚を醸し出すことを重視していない。むしろ、スプラッタ映画風の暴力やセックスに象徴されるような、皮膚感覚の恐怖を描くことに力を入れている。
 『けだもの』にも、スプラッタパンクにつきものと言っていいエロスとバイオレンスが盛り込まれている。だが、決して扇情的なだけの小説ではない。暴力もセックスも、この物語にとっては必要にして欠かすことのできない要素なのだ。

 物語の開幕からまもなく、離婚の成立を知らされたシドは別れた妻のことをあれこれ思い出して悲嘆に暮れる。その心理を綿々と綴る文章からうかがえるのは、これは恋愛小説にほかならない、ということだ。シドとノーラとヴィクの三角関係が提示されてからは、恋愛小説としての側面はさらに明確になる。内省的な人物であるシドの心理描写が目立つが、ノーラやヴィクの心の動きもじっくり描かれている。それは読者に物語への没入をうながし、登場人物たちの感情の高まりを疑似体験させる。
 激情は肉体を動かす。セクシャルな場面が頻繁に描かれるのは、激しい感情がストレートに行動に結びついているからだ。また、男女がベッドで(あるいはそれ以外のところで)繰り広げる行為の子細も、人物描写の重要な部分を占めている。たとえば執拗なまでに避妊を拒むノーラの行動の背後にあるのは、彼女が抱えている心の重荷だ。また別の場面では、生殖とは無縁なヴィクの暴力的な性行為が、重荷を抱えたノーラの心を致命的に深く切り裂いてしまったことが示される。
 セックスだけではない。本書の殺戮シーンもまた、男女の愛憎と深く結びついている。登場人物たちは何度か野獣の姿に変身して人々を殺す。しかし、犠牲者の命を奪う瞬間が直接描かれる場合と、そうでない場合とがある。殺す瞬間が読者の目の前に提示されるのは、殺戮の動機が、嫉妬や復讐といった愛する者をめぐる感情にある場合に限られる。逆に、生活のための「狩り」などの場合は、殺しの瞬間が直接描かれることはまずない。せいぜいその死体が示される程度(それだけでも十分に凄惨だが)、あるいは犠牲者から奪った品々に言及するくらいだ。つまり、この小説に描かれる暴力のほとんどは、極端な形での愛憎の表現であり、セックスと隣り合わせの行為である。

 登場人物がふるう暴力もまた、この作品の重要なテーマだ。作中の一部の男女は、常にひとつの問いを突きつけられている。
 自分の中のけだもの=暴力衝動と、どのようにつき合うか?
 この問いは「狼への変身」との対峙という形で提示される。ある者はけだものを解き放ち、衝動のままに人を狩って生きてゆく。ある者は自己のルールを定め、そのルールのもとにけだものを律しながら生きてゆく。
 この作品における人狼とは、外部からの感染というよりは、むしろ内面からの覚醒にもとづく存在として描かれている。作中、登場人物がいくつもの映画を見て物足りなさを感じる場面があるが、そこで狼男映画と並んで名前の挙がる作品に、なぜか狼とは無縁な『ザ・フライ』や『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』が含まれているのは象徴的だ。『ザ・フライ』の物語は、新しい発明品の実験時に起きた事故によって、身体がハエと融合してしまった科学者の悲劇である。それは「自分が自分でないものに変わってしまう」というアイデンティティの侵蝕だ。だが、本書での狼への変身とは、自分の暴力衝動が肉体に顕現する、いわば極端な形での激情の噴出なのだ。そしてその暴力衝動は、『アルタード・ステイツ/未知への挑戦』に描かれるような無意識の奥底に潜んでいるものではなく、もっと明確に意識されているものだ。
 このような、自分の中の暴力衝動に向き合う恐怖についてノーラは言う。
「獣性恐怖。野獣を怖れること。自己投影のようなもの。一種の自己嫌悪ね。自分のなかの狂暴で不合理な部分を怖れること。たいていの人が、死ぬほど怖れているわ」
 それは、古典的なホラーの描く「被害者としての恐怖」とは異なる、いわば「加害者としての恐怖」である。たとえば、シドは妻を寝取った男のもとに乗り込んで暴力衝動を爆発させたことがある。その記憶があるからこそ、彼は自分のなかのけだものを恐れるのだ。本書の登場人物たちの暴力衝動は、愛情や嫉妬、復讐心といった、人間的な感情をきっかけに噴出するという点で、「狂気」という便利なキーワードですべてを片づける凡庸なサイコ・スリラーよりもはるかに真に迫っている。

 このような暴力衝動の扱いは、ジム・トンプスンやジェイムズ・エルロイ、あるいは馳星周といった作家たちの作品に通じる。「暗黒小説」と呼ばれるこれらの小説は、犯罪について語ることで暴力を描いている。スプラッタパンクが、超自然現象などを通して暴力を描いているように。また、多くのミステリーが被害者や捜査側の眼で事件を追うのに対し、暗黒小説はしばしば犯罪者の視点から描かれる。
 たとえば、『けだもの』という題名がほのめかす獣性=暴力衝動を、さらにストレートな形で題名に表現した小説がある。ジム・トンプスンの『内なる殺人者』(河出文庫)だ(2008/01追記:2005/06に三川基好による新訳が刊行された)。心に歪みを抱えた保安官補の一人称で語られる、私的な復讐をきっかけにくり返される殺人の物語。彼の精神には気さくな保安官補と殺人狂が境界なしに同居する。それは「向こう側」の怪物めいた「狂気」ではない。彼の行動は異様ではあるが、不自然なところはない。トンプスンの描くしたたかな異常さは、「こちら側」の我々にも説得力を持っている。加害者の視点に立った、暴力衝動が暴発するまでの心理描写が読者を震撼させる。
 スプラッタパンクというスタイルは、加害者からの視点による恐怖を描くことを容易にした。典型的なホラーが、恐怖現象の受け手の心理を重視するのに対し、スプラッタパンクは即物的な血まみれの暴力描写に力を入れる。主観的な心理よりも、客観視可能な肉体。それゆえに、被害者の視点にこだわる必然性は薄れたのだ。
 そして、暴力衝動を恐怖として描くだけでなく、誘惑として描くところもまた暗黒小説を思わせる。シドはノーラと関わり合ううちに、彼女の心に巣食う暴力嗜好に気づきながらもその世界に搦め取られてゆく。これまでに築いた日常を、友人を、社会のルールを捨ててもなお、シドを駆り立てる衝動。周囲からは堕落としか見えないだろうが、彼が感じるのは幸せな解放感だ。健全さを持ち合わせた人物として登場するシドが、どこまでノーラの「暗黒」に沈んでいくのか。それは本書のテーマのひとつでもある。
 シドよりはるかに暗黒小説的なのが、ヴィクとノーラだ。二人とも、暴力を称揚し、嬉々として人を狩る。法律など何とも思わないアウトローで、弱肉強食という原理を信じている。
 特にヴィクは裏の主人公とでも言うべき人物だ。ストーリーを動かす存在であり、積極的に行動して物事のイニシアチブを握ろうとするタイプだが、ノーラを憎みながら愛し、彼女から離れられずに堕ちてゆく破滅的な男でもある。いわば、暗黒小説に登場する主人公の典型なのだ。
 一方のノーラは、初登場の場面で映画『ギルダ』のヒロインにたとえられる。『ギルダ』をはじめとする、四〇~五〇年代に作られた「フィルム・ノワール」と呼ばれる一連の映画は、テーマやスタイルの面で暗黒小説と深く結びついている。奔放なふるまいで男たちの心をかき乱すところを除けば、ノーラの人物像は映画のギルダとはさほど似ていないのだが、彼女がフィルム・ノワールや暗黒小説につきものの「運命の女【ファム・ファタール】」であることは明白だ。暴力の翳を帯びた危険な魅力の持ち主であり、男たちを翻弄する存在である。
 本書は、シドの性格づけのおかげで典型的なアメリカ産娯楽小説となりおおせている。だが、もしもこの物語をヴィクとノーラの──特にヴィクの視点から描いたならば、まぎれもない暗黒小説になっていたに違いない。

 さて、この物語を創った男たちのほかの作品についても記しておこう。残念なことに、そのほとんどが未訳だ。
 ジョン・スキップ(一九五七年生まれ)とクレイグ・スペクター(一九五八年生まれ)は学生時代に出会い、映画関係のライターをしながら短編でデビューした。
 二人の合作になる長編は、以下の六作がある。
 “The Light at The End”(86)では、ニューヨークの地下鉄で吸血鬼が殺戮を繰り広げる。(2003年追記:その後『闇の果ての光』として文春文庫から邦訳が出た)
 “Cleanup”(87)では、ひとりの青年が「天使」のお告げを聞き、汚れた街の浄化に乗り出す。
 彼らの音楽の嗜好が垣間見える“The Scream”(88)では、悪魔的なヘヴィ・メタル・バンドが描かれる。
 それまでに発表した短編をまとめて長編に仕立てたのが“Dead Lines”(89)。ちなみに、この作品の一部となった短編「男になれ」(Gentlemen,87)は、「SFマガジン」九〇年五月号に訳出されている。
 “The Bridge”(91)は環境問題をテーマにした破滅もの。
 そして本書、『けだもの』(Animals,93)。
 なお、このほかに映画『フライトナイト』のノベライゼーション(86、講談社X文庫)がある。
 二人は『けだもの』を最後にコンビを解消し、以後はそれぞれがアンソロジーなどに個別に短編を発表している。
 また、ジョージ・A・ロメロに捧げられたゾンビ小説アンソロジー『死霊たちの宴』(89、邦訳98、上下巻、創元推理文庫)および続編“Books of The Dead 2:Still Dead”(91)の編者でもある。
 このほか、映画『エルム街の悪夢5ザ・ドリームチャイルド』(89)の脚本にも関わっている。映画ということで付け加えておくと、二人は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のカラー版リメイク(90)やクライブ・バーカー監督の『ミディアン』(90)で、エキストラとしてゾンビを演じた。

 「パンク」と名のつくムーブメントの定石どおり、運動としてのスプラッタパンクは今はもう沈静化している。だが、良質な作品は運動の盛り上がりとは関係なく読まれてしかるべきだろう。すでにコンビを解消している二人だが、長編の邦訳はノベライゼーションを除けば本書が初めてである。これから彼らの他の作品、あるいは他の作家たちの代表作の紹介が進むことを期待しよう。
 まずは、激情に満ちたこの作品を存分に楽しんでいただきたい。
 ただし……内なるけだものを解き放たないように、くれぐれもご注意を。