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素粒子

小説
ISBN:4480421777ミシェル・ウエルベック / 野崎歓訳 / 筑摩書房

この本の存在を教えてくれたのは、大学の後輩に当たる男。酒の席で、この本を読んだかと聞かれたので、読んでないと答えたところ、これはきっと気に入るはずだと薦められた。

大当たりだった。いやあ、とんでもない小説を読んでしまった。

主人公は奔放な母から生まれた、それぞれ異なる父を持つ二人の男。兄のブリュノは、女漁りが趣味の学校教師。そして弟のミシェルは、やたらと禁欲的な素粒子物理学者。物語は、この二人の半生をつづる形で進行する。さえない中年男の乱れた性生活とか、人付き合いの悪いインテリ野郎の地味な生活なんぞが延々と語られるわけだ。えらくこぢんまりした話だって? そうかもしれない。こんなふうに紹介すれば、ずいぶんおとなしい小説にしか見えないだろう。

でも、これが面白いんだな。性と俗、じゃなかった聖と俗の混交とでも言うのだろうか。若いねーちゃんのあんなところが見えちゃったよへっへっへ、という中年おやぢの淫靡なヨロコビと、二十世紀ヨーロッパ文明がたどり着いてしまったひとつの行き詰まりとが、まったく等価に扱われる。というか、この二つはつまるところ同じものかもしれない。

えー、あとは読んでのお楽しみ。結びの一行の壮大さはもうSF。

the TWELVE FORCES

小説
~海と大地をてなずけた偉大なる俺たちの優雅な暮らしぶりに嫉妬しろ!~

the TWELVE FORCES戸梶圭太 / 角川書店

 アメリカのエンターテイメント作家が書く小説は、しばしばジェットコースターにたとえられる。息もつかせぬ勢いでめまぐるしく展開する物語は、確かにジェットコースターを思わせる。

 この『the TWELVEW FORCES 海と大地を(以下略)』も、そんなジェットコースターの影響がうかがえる作品だ。もっとも、作品のスタイルは、ジェットコースターとはかけ離れているけれど。

 ジャングルで発見された謎の物体。世界的な大富豪ランドルフは、それが古代人の作った二酸化炭素除去装置かもしれない、ということを知る。かくして、その正体を探るために世界各地から学者、傭兵、冒険家がスカウトされ、あげくのはてには芸術家までもが招かれる。二酸化炭素除去装置で、この地球を救うために……。

 とまあ、こんなあらすじを書いてもあまり意味のない話である。

 主役はランドルフ、そして彼の集めたヘンな連中。ストーリーの展開そのものよりも、ひとつひとつの場面で、彼らがいかにヘンな活躍をするか、に力が注がれている。

 この作品を楽しむには、登場人物に強く感情移入しながら読むよりは、観客として眺めているほうがいい。

 章は細かく分かれているので、いっぺん読み終えてしまえば、実は適当なところからでもそれなりに楽しく読める。一気呵成に読ませるところに意義があるジェットコースタータイプとは趣をことにする作品なのだ。

 没入するよりも、眺めるタイプ。

 線としての流れよりも、点としての個々の場面。

 そう、これはジェットコースターではなく、言うなれば「読む花火大会」なのだ。

 しかもいささかやけくそ気味の花火大会である。 最後には派手な大玉を打ち上げてくれる。構成そのものは破綻気味の作品ではあるけれど、もともと「流れ」に整合性を持たせることなんかあまり意識していなかったに違いない。

 読んだら感動するとか考え方が変わるとか、そんなことは決してないだろう。

 変な付加価値をつけずに、純粋に娯楽に徹して見せた作品だ。

ストレート・レザー

小説

切り裂く刃はリンクを夢見る

ストレート・レザー ハロルド・ジェフィ / 今村楯夫訳 / 新潮社

 この短編集の題名から連想したのは、イギリスのヘヴィ・メタル・バンド、ジューダス・プリーストのアルバムだ。'80年の「ブリティッシュ・スティール」のジャケットには、剃刀の刃が描かれていた。中身は、いささか過激な歌詞と、装飾をほとんど削ぎ落とした楽曲。その特徴は、『ストレート・レザー』の題材と文体にもあてはまる。

 作者が好んで歌う題材は、暴力と性的逸脱だ。

 暴力は社会秩序の侵犯であり、同性愛や服装倒錯は性差にまつわる規範からの逸脱である。つまるところ、どちらも「秩序の混乱」なのだ。

 二つの要素はしばしば連動している。だから、この短編集での暴力行為はある構図をとることが多い。それは性的秩序を維持する側と、そこから逸脱する側との衝突だ。例えば、表題作に登場する死刑執行人と若者の関係がそうだ。「シリーズ/シリアル」の男嫌いの女殺人者と、被害者の男たちの関係も同じである。

 暴力を「社会秩序の維持」の名のもとに否定するのはたやすい。だが、個人的な嗜好である性的逸脱はどうか? この二つが絡み合い、しかも人種差別/性差別といった既成秩序の負の面が描かれることによって、「秩序維持=正義」という図式は切り裂かれてゆく。

 もっとも、このような題材の選択と視点は、すでに多くのミステリーやホラーに見られる(どちらも、社会秩序、あるいは日常的な秩序の混乱を好んで描くジャンルだ)。

 むしろ注目すべきは、その表現方法だ。

 作者が奏でる文章に目立つのは──省略/欠落/装飾の排除。

 個々の短編はいたって短い。文章は切り詰められている。会話だけで地の文がない短編もある。作者が創り出した架空のスポーツやテーマパークの名前が、何の説明もなく飛び出す。省略という点で特徴的なのは「透明人間」の文体だ。原文の一部はあとがきに載っている。何でもかんでも切り詰めてしまうそのスタイルは、英語圏のWebページで見かける略語とジャーゴンまみれの文体を思わせる。

 Web的なスタイルといえば、本書の短編は、それぞれの要素によって互いにリンクしている。例えば表題作と「シリーズ/シリアル」は、「剃刀で男の下半身をいためつける二人組」という要素でつながっている。「ネクロ」と「迷彩服とヤクとビデオテープ」を結ぶのは、白人の不良警官だ。

 極端な短さ、そして短編どうしのリンク。そう、これは印刷物として読む(read)よりも、Webの上で眺める(browse)のに適したスタイルの小説だ(1ページに長い文章が鎮座ましますWebサイトにうんざりしたことはないだろうか?)。題名こそ切断をイメージさせる短編集だが、その文章はリンクを──つながりを志向している。

 最近、スティーヴン・キングが「ライディング・ザ・ブレット」をインターネットで配信した。配信形態こそ変わっているが、あれは印刷物の形でも十分に読みやすい──むしろそのほうが読みやすい。それは、キングが従来の小説と同じスタイルで書いているからだ。しかし、『ストレート・レザー』のスタイルは違う。本書が奇異に見えるのは、印刷物の形をとっているからではないだろうか。もしもブラウザで見るのに適した形で提供されていたら、果たしてどうだろう?

 ジューダス・プリーストが自らの音楽を剃刀にたとえた「ブリティッシュ・スティール」だが、もっと激烈な音楽があふれる今では、その魅力はむしろ激しさ以外のところにある。『ストレート・レザー』もまた、いつかは奇抜でもなんでもない作品になるのかもしれない。

ジョン・ランプリエールの辞書

小説

知性と教養の豪勢な無駄遣い

上巻下巻ローレンス・ノーフォーク / 青木純子訳 / 創元推理文庫

 時は18世紀末。英仏海峡に浮かぶ小さな島で育ったジョン・ランプリエールは、たまたま貴族令嬢が水浴しているところを目撃してしまう。同じように水浴を目撃した彼の父は、猟犬たちに襲われて殺されてしまった。

 父の遺産相続手続きのためロンドンに渡ったジョンを待ち受けていたのは巨大な陰謀だった。だが、そんなことに気づかない彼は、人に勧められるまま辞書づくりを開始した……

 史実の人物を主役に据えた歴史ミステリ風の作品。だが、地に足のついた(悪く言えば地味な)作品だと思ったら大間違い。さまざまな謎と大道具と小道具がごった煮になった、にぎやかで楽しい小説なのだ。

 精緻な自動人形。

 ロンドンの地底に広がる、有史以前の巨大生物の骸とされる地下洞。

 インドから来た暗殺者。

 100年前のフランスでの宗教紛争。

 そして何より、後半三分の一で描かれるある道具の存在には、びっくりしてひっくり返ってしまった。

 そんな物語をつづる文章もまた、どこか読者を翻弄するような調子。言葉の端々に作者の教養がたっぷりと練りこまれている。これは、たとえばスティーヴン・キングみたいに、じっくりと書き込んで読者を作品世界に引きずり込もうという作家とは一線を画している。どこか「遊んで」いるのだ。一筋縄ではいかない文章だが、なかなか魅力的で、いつまでも読んでいたいという気分になる(そして、分厚いからかなり満足できる)。

 できれば、たっぷり時間を取って、ゆっくりと読みたい小説。

不器用な愛

小説

彼と彼女の世界の認識

ISBN:4562033045エマニュエル・ベルナイム / 稲松三千野 / 原書房

 パーティの席で出会ったエレーヌとロイックのふれあいとすれ違いを描く恋愛小説。

 ドラマチックなできごとはほとんど起きない。二人がディナーを共にし、あるいはベッドを共にし、あるいは会う約束が反故になり、という様子が淡々と語られる。

 主に描かれるのは二人の行動、そして物事。そのディテールがつぶさに描かれる。二人の心の動きの大部分は、こういった事物を通じて語られる。もちろん内面描写もなくはない。だが、二人がお互いをどう考えているかということすら遠回しにほのめかされる程度である。

 行動を通して人物を描くというと何だかハードボイルドみたいだが、そういえばこの作品にはダシール・ハメットの作品のようなそっけなさも感じられる。ハメットの切り詰められた言葉が、実はきわめて密度が高いということはよく言われているが、この小説もそうだ。

 ただし、ハメットがあくまでも客観的な描写を目指したのに対し、この小説での事物の描写は、あくまでも二人のどちらかの視点に立ったものである。彼または彼女が、世界をどのように知覚したのか。彼または彼女がなにを認識し、何を認識しなかったのか。物事の描写には、そういう意味あいがこめられているようにも見える。行動を通して人物を描くというよりは、行動と知覚を通して人物を描く、といったところか。

 こういった面に読者の意識を誘導したいからだろうか、この小説では二人の会話らしい会話はほとんど出てこない。静けさは緊張をさらに高める。

 いつもスティーヴン・キングに代表されるようなアメリカ産娯楽小説、あるいは最近の国産ミステリーといった饒舌な小説ばかり読んでいるせいか、こういうある意味ストイックな作品はとても新鮮に感じられた。ヒロインの歯に野菜の切れ端がくっついてる様子までもが描かれる小説も、そんなにないような気がする。私がふだん読んでいるものが偏っているだけかもしれないが。