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カノン

ノワール

妄想ダメ親父が拳銃片手に大暴走。クソどもは皆殺しだ!

カノンギャスパー・ノエ / 奥田鉄人 / 斎藤敦子訳 / 角川書店

 ATTENTION!

 こいつはヤバい作品です。ページを繰るときはご注意を。

 生まれて間もなく親に捨てられ、娘に手を出そうとした男に暴力をふるって刑務所に行き、出てからはヒモとして生きている中年男。信じられるのは自分だけ。アラブ人とホモ野郎に敵意をつのらせ、生き別れの娘の姿を追い求める男。ヒーローと呼ぶにはあまりにも薄汚いダメ人間だが、どこかハードボイルドな空気を身にまとっているのも事実だ。

 世間とうまく付き合えずに生きてきたそんな中年男が、ふとしたきっかけで暴発する。この男の世界観はいびつで自分勝手で冷酷そのもの。

 ATTENTION!

 世間の常識からは許されないようなカタルシスを味わえます。良識派を自認されている方はご注意を。

 クライマックスの妄想親父のキレ具合は果てしなく官能的ですらある。

 これ、ギャスパー・ノエによる映画を奥田鉄人がコミック化……というのは正しくないな、コミック・ノベル化したものである。小説でもあり漫画でもあり、という表現方法がここではかなり効果を上げている。主人公の顔はその頑なさをあますところなく表現しているし、彼のいかれた思考を綿々と綴る文章も読ませる。タイポグラフィもかなり自由に使いこなしている(特にクライマックス)。

 鬼畜そのもののフィニッシュは、それでも哀切に満ちている。

 かくも刺激的な作品が世に出るのは楽しいが、こんな作品がリアリティを帯びてしまう現実というのは……。

マンチェスター・フラッシュバック

ノワール

投げ捨てた過去に向かい合う

マンチェスター・フラッシュバック ニコラス・ブリンコウ / 玉木亨訳 / 文春文庫

 それなりの年月を生きていれば、忘れてしまいたい過去のひとつやふたつはあるだろう。それがあまりにも重ければ、投げ出して逃げ出してもおかしくない。これは、そんな男の物語だ。逃げたけれど逃げ切れず、追いかけてくる過去と向き合う男の物語だ。

 男がマンチェスターの街を捨ててから15年。今ではロンドンでカジノの支配人になっていた。そこへ訪れた、かつて浅からぬ因縁があった刑事が告げる。昔の仲間が殺された。その手口に、男は15年前のあの事件を思い出す。かくして男は捨てたはずのマンチェスターへ、自分の過去へと舞い戻る……。

 15年前と今のマンチェスターを交互に描きながら、過去と現在の二つの殺人事件の真相をゆっくりと浮かび上がらせる。

 かつての主人公はドラッグ欲しさに体を売る男娼だった。彼自身は同性愛者ではないが、登場人物には同性愛の嗜好者が多い。物語を織り成す縦糸が殺人事件をめぐる物語とするならば、横糸は彼らの風俗描写だ。

 保守的な警察幹部には目の敵にされる彼らは、もちろん社会のアウトサイダー。社会を見上げるその視線は、ハードボイルドにも通じるものがある。それも、チャンドラーが描いたような「卑しい街を行く孤高の騎士」なんぞの夢物語ではない。「卑しい街を生きる薄汚れた男たち」の物語だ。過去に向かい合う男の探索行には、郷愁と冷徹さが同居している。

 おぼろげな過去が徐々に読者に明らかにされるという点では、本書はトマス・H・クックの『緋色の記憶』に始まる一連の作品、あるいは天童荒太の『永遠の仔』などの系譜に連なる。前者は私の好みではないが、きわめて技巧にすぐれた作家であり、後者はベストセラーにもなったのでご存知の方も多いだろう。

 過去とどのように対峙するか、という主人公の姿勢について言えば、私は本書の主人公にもっとも好感をおぼえる。

 全般に、少々あっさりしているところが好ましくもあり、また弱みでもある。特に主人公と因縁のある刑事(これはなかなか印象に残る人物。著者のほかの作品にも登場するらしい)以外の警官たちについては、もっと書き込まれていてもいいのではないかと思う。とはいえ、まずまず面白く読める作品ではある。主人公の過去に対する姿勢も、クライマックスではなかなかいい形をとっていて、こういうジャンルでは新鮮に感じた。

殺戮の天使

ノワール

フランスが生んだハードボイルドの結晶

殺戮の天使 ジャン・パトリック・マンシェット / 野崎歓訳 / 学研

 冷徹に人を殺す正体不明の女は、身分を偽ってある田舎町へとやってきた。町の俗物たちと付き合いながら、やがて彼女はある計画を実行に移す……。

 ハードボイルドといえばアメリカ、という印象がある。が、アメリカ製ハードボイルドの影響を受けながらフランスで独自に発展した小説(向こうではロマン・ノワール----暗黒小説と呼ばれることが多い)も、非常に味わい深いものがある。

 英語圏の娯楽小説とフランスとの関わりには、ひとつの傾向があるように思う。

 母国では安っぽい煽情的な三文小説の書き手とされていた作家が、フランスでは熱狂的に受け入れられる、という図式だ。ホラーではH・P・ラヴクラフト(『クトゥルーの呼び声』)、SFではフィリップ・K・ディック(『ヴァリス』)、そして犯罪小説ではジム・トンプスン(『ポップ1280』)やジェイムズ・ハドリー・チェイス(『ミス・ブランディッシの蘭』)。

 フランス人がハードボイルドに「発見」したのも、チャンドラー的なロマンティシズムよりは、むしろ根源的な暴力の世界だった。

 そんなフランス製ハードボイルド、ロマン・ノワールの一つの頂点を作り上げたのが、本書の作者ジャン=パトリック・マンシェットだ。極左思想の信奉者であり、本書も注意深く読めばそういう要素が読み取れる(初期の傑作『地下組織ナーダ』では前面に出ていた)。

 が、「左翼」という言葉からイメージしがちなイデオロギーまみれのうっとうしさは皆無である。ぎりぎりまで研ぎ澄まされた文体で語られる鋭利な物語は、ハードボイルドのひとつの極点だ。饒舌さを排したところに生まれるスピード感が心地よい。

 ただし、これはマンシェットのスタンダードではない。

 スタイルが洗練の極みに達したせいか、この作品は一種異様な高揚感に満ちている。本書のクライマックスでは、物語は象徴に満ちた寓話のような世界へと結晶し、最後には正常な小説の書き方すら投げ捨てて幻想の地平へと飛翔してしまう。極限まで言葉を切り詰めたがゆえになしえた力技だろう。

P.S.
 今年(2000年)もっとも気になる作品であるヴィルジニ・デパントの『バカなヤツらは皆殺し』は、この小説のラストでのマンシェットの叫びに対する、ある種の返答のように思われる。

ポップ1280

ノワール

神なき世界の黒い哄笑

ポップ1280 ジム・トンプスン / 三川基好訳 / 扶桑社 (→扶桑社ミステリー)

ニック・コーリーは保安官で、人口1280人に満たない田舎町ポッツヴィルの治安を担っている。……もっとも、仕事らしい仕事はほとんどしない。彼をなめてかかっている売春宿のヒモをどうすべきか、同僚の保安官に相談に行ったところから、彼の運命は転がりはじめる……。

 ジム・トンプスンといえば、近年再評価著しい伝説のパルプ作家。もっとも、映画『ゲッタウェイ』の原作者、と呼んだほうが通りがいいかもしれない(あ、『グリフターズ』の原作も彼だ)。狂った論理が堂々とまかり通るその作品世界は、読者の心をも侵蝕してゆく毒に満ちている。

 本書は、彼の最高傑作といわれる暗黒小説。「すでにできあがっていたカバーイラストに合わせて2週間で書き上げ、入った原稿料はあっというまに飲んでしまった」という素敵なエピソードも伝わっている。

 書き飛ばした作品? たしかに、成立過程はそうかもしれない(あくまで「伝説」という気もするが)。だが、それを感じさせない精緻なつくりを備えていることも確かだ。さして長くもないこの小説の随所に隠された仕掛けは、吉野仁氏の力のこもった解説でその一端が解き明かされる。

 いたるところに皮肉とブラックユーモアが撒き散らされている。冒頭、睡眠不足を訴えながら過剰なまでの睡眠をとり、食欲減退を訴えながら異常な量の食事をとるところはほんの序の口。行き当たりばったりにあっさりと人を殺し、あるいはいとも簡単に罠にかけてしまう。それでいながら純真な心の持ち主であることを強調しつづける主人公。純真さを装っているのか、それとも「真性」なのか、そのはざまを漂うこの男の語りが、読者をどこまでも翻弄する。

 この男の狂った論理を「狂気」と呼んでしまうことはたやすい。だが、彼ひとりが病んでいるのではない。世界そのものが病んでいるのだ。そして、そんな物語を「娯楽」として消費してしまう我々も。

 限りなく悪意に満ちた視点の持ち主だからこそ、トンプスンは狂った世界の狂った物語を軽妙な犯罪劇に仕立て上げることができたのだろう。

 いわゆる「ノワール」が苦手な人にも、この軽妙にして洒脱な、ブラックユーモアあふれる犯罪劇はぜひともおすすめしたい。ポップな味つけの施されたこの猛毒は、全身を震撼させる。

ポップコーン

ノワール
ポップコーン ベン・エルトン / 上田公子訳 / 早川書房(→ミステリアス・プレス文庫

 暴力的な映画で物議をかもすブルース・デラミトリ監督がオスカーを手にした夜。美人モデルを連れて帰宅した彼を待っていたのは、彼の映画からそのまま出て来たような、逃走中の無差別殺人カップルだった。ブルースたちを人質に取った彼らは、警察とマスコミに意外な要求を突き付ける……。

 ハリウッドが舞台だが、作者はイギリス人である。デラミトリ監督のモデルは、もちろんタランティーノ。全編をおおうブラックなジョーク、そして皮肉な展開を読んでいると、確かに「アメリカ的」というよりは「イギリス的」という気がする。イギリスというと、ついつい「モンティ・パイソン」なんぞを思い浮かべてしまうせいだろうか。

 スピーディな展開につられて、すいすい読めてしまうが、実は重いテーマを扱っていたりする。

 ひとつは、映画などの創作に影響されて犯罪が起きることがあるのか、というもの。日本でも、凶悪犯罪が起きると、TVドラマの暴力描写やらホラー映画なんかをやり玉に挙げたがる人がいるけれど、それと同じだ。

 もっとも、あれは暴力犯罪を犯す人間が暴力描写を好む傾向が強いということであって、因果関係のとらえ方が逆ではないかと思うのだけれど。

 そして、もう一つのテーマが「責任」だ。「社会が悪い」「病気だから」などなど、何かしら自分以外のものに責任を転嫁したがる姿勢。ま、日本でも流行ってますね。そういう意味では、この本の結末はきわめて皮肉だ。

 が、とても真剣に受け止める気になれないような書き方をしているあたりに、この作者のイギリス的なひねくれ具合を感じる。

 なにしろ作者がこのテーマを浮かび上がらせれば浮かび上がらせるほど、「だったらおまえはどーなんだよ」と読者がツッコミたくなるような構造になっているのだから。