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迷宮の暗殺者

ミステリ
ASIN:4789721973デイヴィッド・アンブローズ / ヴィレッジブックス

ミステリというと、たいていは「最後にびっくり」だ。最後の一行で読者を驚かせようと工夫を凝らす作家も珍しくない。

ただし世の中には、「真ん中でびっくり」という作品もないわけではない。殊能将之『黒い仏』とか、あるいはエドウィン・コーリイ『日本核武装計画』とか。ちなみに後者はあまりにも意外なので、中盤の、意外な秘密が明かされる一行を読んで「一体これは何のことだ?」と疑問に思ったものだ。前者は30ページも読めばアレの話であることは明白だと思うのだが、周囲からは「分かる訳ねえだろ」と言われ続けているので、不本意ながらここに挙げておく。

『迷宮の暗殺者』もそんな「真ん中でびっくり」の一冊。アメリカ政府の特殊工作員の物語と、夫の死を探る医師の物語が交錯して、すさまじく無茶な展開が訪れる。

まあ、無茶ではある。もっとも冒頭のエピグラフを見れば、変な小説を山ほど読んだ人なら、どんなテーマの話かはあっさり見当がつくだろう。

そのテーマ、ということさえ分かってしまえば、あとはお約束の範疇に収まる物語ではある。それでも、第二部ラスト1行のご無体ぶりはすばらしい。

なんたって主人公が【自主規制】なのだ! 【自主規制】!

キワモノをキワモノとして楽しめる方におすすめしたい。

作者は『幻のハリウッド』のデイヴィッド・アンブローズ。あちらはヒネリの効いた短編集だが、こちらはよじれまくってもう何がなんだか。

パーフェクト・プラン

ミステリ
ISBN:4796638113 柳原慧 / 宝島社

 第2回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作。1次選考で応募原稿を読んだのは他の人なので、読むのはこれが初めてだ。

 誘拐を扱った話だと聞いていたし、「誘拐」というキーワードは全編にわたって使われているのだが、実際に読んでみると「誘拐もの」という印象は薄い。とにかく次から次へと事態が大きく動いていくので、誘拐なんてのはとっかかりに過ぎないように感じる。

 これは本書の大きな魅力だ。スタートからは想像もつかない着地点。そこへ至る道筋は決して端正ではないけれど、次から次へと繰り出される新展開に翻弄される楽しさに満ちている。

 それだけに、コンピュータ周りの記述については少々残念だ。

 不正確ではない。むしろ、今までに書かれたこの手の小説の中でもきわめて正確な部類に属するだろう。登場人物の使うコンピュータは、たいていの場合OSが明示されている(それがLinuxだったら、ディストリビューションまで明示されている)。ある人物はメールを読むのにOutlook Expressを使い、また別の人物はEmacsでMewを使っている、なんてことも書かれている。

 だが、ここまでやる必要があったのだろうか?

 正確さを重んじたせいか、「描写」というよりは「説明」になっている。そのせいか、ネットワークに接続したりメールを読んだり添付ファイルを開いたり、という場面を読んでいると、なんだか解説書の操作手順を読んでるみたいな気分になる。

 それなりに複雑な技術を駆使する場面になると、抽象的な説明にとどまっている。いったい女刑事はどんなコマンドを使ったのか? 他人のPCに侵入したスーパーハカーはどんな内容のプログラムを書いたのか? それらのディテールは希薄だ。詳しく書いても読者が難しく感じるだけだ、といわれるかもしれない。だが、片鱗を示すだけでも説得力が増したのではないだろうか。

 たとえば『クリプトノミコン』のような作品では、主人公の技量を示すために、彼が高度なテクニックを駆使する場面を丁寧に描いている(画面の表示内容を「盗聴」されているコンピュータの上で、その「盗聴」を出し抜くプログラムを作るくだりなど)。対象の難しさと、それをクリアする手段。その両方を丁寧に描く演出のおかげで、彼の凄腕ぶりが、コンピュータ技術に明るくない読者にも伝わるのだ。

 と、否定的なことをいろいろ書いてしまったけれど、秀作であることは間違いない。いかがわしくも善良な連中の一攫千金の賭けと、誘拐が誘拐でなくなる特異なシチュエーション。そこから紡ぎだされるスピーディな展開は、読者を楽しませることに徹していて、すんなりと入ってゆけるだろう。

名探偵ベスト101

ミステリ
ASIN:4403250734 村上貴史編 / 新書館

「名探偵」を軸に、全部で101の探偵を取り上げているミステリのガイド。私も10項目ほど書いている。

紹介しているのは、いわゆる本格ミステリの探偵が中心。とはいえマルティン・ベックやフロストみたいな警察小説の主人公もいれば、半七や顎十郎みたいな捕物帖の主役もいる。はては名無しの探偵みたいなハードボイルドの私立探偵も、ごく少数だが混じっている。

ホームズやポアロや明智小五郎といった「定番」は載っていないのだが(ミス・マープルやクイーンや金田一耕助は載っている)、カッレ・ブルムクヴィスト(子供)やフランシス(動物)やR・ダニール・オリヴォー(ロボット)なんてものまで拾い上げている。

"See Also"として、何らかの形でつながりのある探偵の項4つに「リンク」をはっているのも特色のひとつだと思う。たとえば、法水麟太郎の項には「暴走する妄想探偵」という失礼な理由で帆村荘六へのリンクがはられている。で、帆村荘六の項を見ると、「怪人物との体を張った戦い」としてカナダ連邦騎馬警察・スペシャルXへのリンクが……というわけで、これをたどっていくだけでも意外な出会いがあるかもしれない。

ちなみに、私が執筆したのは以下の10組。
いわゆる本格ミステリの比率が低いのだが、ほかの執筆者はそんなことはない(はず)。

変わり種を載せながらもバランスは取れていると思うので、機会があれば手にとって楽しんでいただければ(そして読書の助けになれば)幸いです。

家守

ミステリ
歌野晶午 / カッパ・ノベルス

「家」に対するオブセッションをテーマにした5編を収録。

世間で評判の『葉桜の季節に君を想うということ』はどうにも物足りなかったのだが、こちらは楽しく読むことができた。

収録作

人形師の家

島田荘司の推薦で世に出た作者だが、その推薦者の「血筋」を感じさせる一編。仕掛けだけ抜き出して説明すると実に馬鹿馬鹿しい話ではあるのだが、脇を支える物語の持つネガティヴな空気と、人形そのものが持つ不気味さとが重なって、独特の雰囲気を作り上げている。

家守

同時期デビューの綾辻行人らに比べるとミステリマニアらしさを感じさせない作者だが(実際、マニアではないのだろう)、この作品の密室はカーター・ディクスンの某作品を強く連想させる。ただし残念ながら、この密室の謎解きが「家」そのものの秘密とリンクしておらず、しかも「家」の秘密も長年隠し通せるものとは思えず、演出不足の印象をぬぐえない。表題作ではあるが、5編の中では一番見劣りしてしまう。

埴生の宿

5編の中では最も気に入ったのがこれ。物理的な仕掛けが、登場人物の「家への妄執」と強固に結びついていて、ちょっとした戦慄を感じさせる。稚気あふれる仕掛けが存在しうるシチュエーションを考えた結果生まれた物語にも見えるが、どこかフィリップ・K・ディックの短編に通じるものがある。

西日本の山奥、住人のほとんどが二つの家のどちらかに属している--となると両家の対立なんぞを期待しがちだが、そんなこともなくのんびりした平和な村が舞台。明かされる真相も人情話めいているのだが、どこか背筋を冷たくさせるものがある。「埴生の宿」に次いで、本書で気に入った作品。

転居先不明

作中に語られる二つの事件が、内容的にまったくつながっていないという弱点は表題作と同じ。ただしそれが不満につながらないのは、内容とは別のかたちで二つが関連づけられているからだ(そのせいで構成はぎくしゃくしているのだが)。それに加えて、典型的ではありながらも鮮やかなしめくくりも好印象。

チャンス

ミステリ
ASIN:4150756813 (ロバート・B・パーカー/ハヤカワ・ミステリ文庫)解説

スペンサーは変わらない

 二〇〇三年の『真相』で、スペンサー・シリーズは三〇作を数えることになった。初登場の『ゴッドウルフの行方』から三〇年。十分に長い年月といえるだろう。なにしろ、第一作が刊行された年に生まれた赤ちゃんが、書評家と称して『チャンス』の文庫解説を書くようになるくらいの年月なのだから。
 失礼、解説者のことはどうでもいい。本書『チャンス』は、一九九六年に刊行されたスペンサー・シリーズの第二十三作である。
 題名のとおり、これはチャンスをめぐる物語だ。誰もがチャンスを狙っている。たとえばスペンサーが行方を追うアンソニイは、いつでもひと山当てようとしているギャンブル狂だ。今回が初の登場で、後に『ポットショットの銃弾』にも姿を見せる私立探偵バーナード・J・フォーテュナトも、つかんだチャンスを逃さない男として描かれる。そして、アンソニイの舅ヴェンテュラほか、ボストンの裏社会のボスたちも、勢力拡大のチャンスを虎視眈々と狙っているのだ。
 さらに、トップレス・バーで働くディクシイをはじめ、端役たちもチャンスを狙っている。わずか一場面に姿を見せるだけのスチュワーデスのシェリルさえも、乗客のホークにささやかなチャンスを見いだす。
 そんな数々の「チャンス」を象徴するように、今回スペンサーが赴くのはラス・ヴェガス──一獲千金を夢見る男女が集まる街だ。ボストンを描くいつもの筆さばきで綴られるラス・ヴェガスの光景は、本書の見どころのひとつでもある。ストーリーそのものは実にあっさりした作りだが、「チャンス」をめぐる細部の凝り具合はなかなか興味深い。

 興味深いといえば、作者パーカーは本書にちょっとした表現上の試みを取り入れて、「いつもの連中のいつもの冒険」にささやかなスパイスを加えている。それは第三者の視点だ。
 言うまでもないが、スペンサーの物語は彼自身の一人称で語られる。物語を支配するのはスペンサーの視点であり、スペンサーの主観だ。そこに第三者の視点が侵入する。『真紅の歓び』で犯人のモノローグが挿入されたのをきっかけに、スペンサーの視点に支配された世界がかすかに綻ぶ。『ダブル・デュースの対決』では、黒人少女の死の場面が三人称で淡々と描かれ、『虚空』では監禁された女性の視点での文章が挿入される。
 そして、『チャンス』の冒頭だ。華やかな明日を夢見る、おそらくはまだ若い女性。彼女の視点で綴られた三人称の短い文章の後に、おなじみのスペンサーの語りが幕を開ける。いったい、彼女は何者なのだろう?
 明らかにスーザンではなさそうだ。物語の幕が上がってからすぐに登場する、ヴェンテュラの娘シャーリイでもないだろう。このような夢を抱くほどの想像力はなさそうだし、そもそも彼女は赤毛ではない。疑問符をぶらさげながら読んでゆくうちに、どうやらこの人らしい--この人の過去の姿らしい、という人物が登場する。そう、彼女もまた、チャンスに賭けた人間だったのだ。
 叙述面では特別な地位にいる彼女だが、物語の中では特権的な立場にはいない。彼女の役割はたしかに重要だ。だが、スペンサーと彼女の会話よりも印象に残るのが、スペンサーがスーザンやホークと交わす、スペンサーの彼女に対する姿勢をめぐる議論のほうである。このような、スペンサーとおなじみの面々とのやりとりは、彼が自分のスタイルを再確認するための作業でもある。行動そのもの以上に、行動をめぐる反省会めいたやりとりを通じて、スペンサーという存在がより明確に読者の心に刻み付けられる。彼女も、スペンサーを印象づけるための存在になっているのだ。

 スペンサーにスーザン、そしてホークという面々を中心とするおなじみの登場人物たち。いくつもの作品を通じて熟成された彼らのかけあいの妙は、行動の後の「反省会」も含めて、すでに完成の域に達していると言っていいだろう。
 たとえば、カジノでの一場面。ブラックジャックに挑戦した(けど負けた)スーザンと、後ろからアドバイスを与えた(けど無視された)スペンサーの、勝負の後の会話。
「そう、批判するわけではないが、十八でなぜもう一枚もらったんだ?」
「ただ突っ立ってるのがいやなの」
「もちろん、そうだろう」
 スーザンの駄目ギャンブラーぶりが描かれる愉快な場面での、これまた愉快なやりとりである。短い中にも、スペンサーとスーザンの人物像、そしてふたりの関係が浮かび上がる台詞だ。
 こんな彼らの会話を読むだけで満足、というファンの方も多いのではないだろうか。最近のシリーズは、描かれる事件そのものよりも、そこに登場するお馴染みの人物たちのやりとりを楽しむものとしての傾向が強くなっている。
 そんなキャラクター小説としての充実ぶりは、「タフガイ」というスペンサーのあり方と表裏一体の関係にある。その両者をつなぐのが、先ほど述べた「反省会」だ。
 ふつうの反省会ならば、良いところをさらに伸ばし、悪いところを改めるために行われるものだろう。だが、スペンサーの「反省会」はいささか勝手が違う。たとえば、こんな発言が出てくることも珍しくないのだ。
「ほかの方法を考えるべきだったわ」
「判ってる」
「かりに、もう一度やらなければならないとしたら、あなたは同じことをやるわ。そうでしょう?」
「そうだ」
 スペンサーの行動を批判しながらも、スタイルの不変を指摘するスーザンと、それにうなずくスペンサー。批判を認めながらも、次も同じようにやる、と確認する。そう、スペンサーの「反省会」は、やりかたを改善するための作業ではない。自分のやりかたを貫くことができたかどうかを確かめる作業なのだ。
 自分のやりかたを貫くこと。それは、スペンサーの言う「タフ」を構成する重要な要素だ。だからこそ彼は、時には依頼人の要求を逸脱するし、自分のルールで人を裁きもするし、誰かを敵に回すことも厭わない。
 安易に他人に影響されないスペンサーが、毎回のように自分の姿勢を再確認する。こうして彼の個性はますます強固になり、存在感はますます揺るぎないものになってゆく。スーザンやホークも、彼の話し相手として、それぞれの立場から彼の姿勢を問い直す。そのやりとりを通じて、周囲の人物たちの個性も固まってゆく。変わらないことをポリシーに掲げる男を描くシリーズとして、実に強力なサイクルを築いている。
 だが、そこには落とし穴も潜んでいる。先に述べたような、構成上特別な地位を与えられた登場人物ですら「反省会」の素材にとどまってしまう状況では、主人公としてのスペンサーが揺さぶられることはほとんどない。シリーズの過去の作品では、スペンサーの自我が揺さぶられるようなできごとが何度か起きている。そのときのスペンサーの切迫感が、読むものの心も揺り動かしていた。彼の自我と事件とが響き合ったところに生まれる感動を、安定期にさしかかった最近の作品に見出すことは難しい。長い年月をかけて完成されてきたスペンサーが、再び揺さぶられることはあるのだろうか?

 強靭な個性を持つキャラクターに支えられ、安定した人気を誇るスペンサー・シリーズ。「今年のベスト選び」みたいなお祭りとは距離を置いて、ベスト投票の結果ごときに左右されないファンをしっかり掴んでいる。シリーズとしては安住の地を得ているといっていいだろう。ある程度の数のファンを獲得できずに、いつのまにやら翻訳されなくなるシリーズも少なくないことを思えば、幸せなシリーズだと言える。
 しかし、このままずっと「いつもの連中のいつもの冒険」が続くのだろうか? おなじみの面々どうしのやりとりと、スペンサーのライフスタイルが見どころの、継続に意義があるシリーズとして続いてゆくのだろうか?
 今のままでも、スペンサーからの年一回の挨拶として、愛読者には十分に満足できるシリーズであり続けるだろう。だが、生まれたころにはすでにスペンサーの活躍が始まっていたような若輩の身としては、もう一度、読む者の魂を激しく揺さぶるスペンサーの活躍が見たい。もうおしまいかもしれないという切迫感を漂わせたスペンサーの姿が見たい。心地よさ以上に刺激に満ちた物語を読みたい。
 見当違いな願望だろうか? ないものねだりだろうか?
 そんなことはない、と思いたい。
 チャンスはどこかにあるはずだ。