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ボトムズ

ミステリ
ISBN:415208376Xジョー・R・ランズデール/早川書房

 スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』、ロバート・R・マキャモンの『少年時代』のような、語り手が少年時代に遭遇した事件を回想するという形式の物語。もっとも、その図式は『スタンド・バイ・ミー』や『少年時代』のそれとは大きく異なる。

 特に、作者と語り手の重なり合う部分が比較的少ないのは、比較されるであろう類書との大きな違いである。ほかの本だと、作者が回想という行為に我を忘れているところがあるのだが(で、それが長所だったりするのだが)、ランズデールは追憶の世界に生きる老いた語り手の様子をも描いてしまう。

 マキャモンに特に顕著な、ノスタルジーの全面肯定に伴う気恥ずかしさ。そのベタベタな甘さこそが『少年時代』なんかの良さなわけだが、『ボトムズ』の良さは、ノスタルジーとの距離のとり方にあるのではないか。老いた語り手を描く無慈悲な筆致は、誠実さの現われでもある。

 甘さの排除という点は、作中に描かれる怪異にも現れている。怪物ゴート・マンの扱いは、例えば『少年時代』の川の怪物オールド・モーゼスのそれとは大きく異なる。ゴート・マンは、あくまでも「人間たちの領域の外側」の森に棲む怪物であり、恐怖の対象である。オールド・モーゼスのような、「共同体の風変わりな一員」にはなりえない存在だ。「自分たちが支配していない領域に抱く恐怖」というのは、未知の大陸への進入によって成立したアメリカの、ひとつの原風景かもしれない。

 メインの連続殺人事件も、1930年代のアメリカ南部という背景に包むことによって独特の色を帯びている。……ただし、事件そのものはあまりにオーソドックスなので、ミステリとしては添え物にあたる部分──治安官レッドの運命や、ゴートマンをめぐる物語のほうがむしろ印象に残る。

 なにやら賞を受賞したせいか、ランズデールの代表作みたいに言われることもあるけれど、個人的には「テキサス・ナイトランナーズ」や「バットマン/サンダーバードの恐怖」みたいな暴虐路線も好みである。

クリスタル

ミステリ

(解説)家族のため、愛するもののため

 バークは現代社会という名の泥沼でもがいている。
 シリーズの第一期、『フラッド』から『サクリファイス』にいたる六作では、児童虐待者に対するバークの処方箋は明快そのものだった--暴力による抹殺。
 しかし『サクリファイス』のクライマックスで、その処方箋はバークの人格を崩壊に導く最悪の結果を招く。
 バークの(あるいはヴァクスの)模索がここから始まった。燃え尽きたバークの復活を描く『ゼロの誘い』では、暴力に頼らない解決がとられた。かと思えば、続く『鷹の羽音』では、身を守るためではあるが再び暴力を用いた。
 そして『嘘の裏側』では、敵の姿すらはっきりしない社会の泥沼だけが示された。バークはまったく銃を使わない--そもそも撃つべき明確な敵が存在しない。フィクションであることを捨ててまで現実を強調したこの作品で示された認識は、おそらくヴァクスの現状認識そのものなのだろう。
 続く『セーフハウス』では、児童虐待とは異なる(とはいえ、弱者を抑圧する存在であることは同じ)悪との戦いが描かれる。女たちをつけ狙うストーカーに、狂信的なネオ・ナチ組織。前作とは正反対の、派手なアクションとカタルシスに富んだ物語だ。この作品で、バークは再び銃を手にする。

 『ゼロの誘い』からのバークは、絶えず暴力と非暴力の間を揺れ動いている。本書『クリスタル』も、その延長にある作品だ。

 まずは、このシリーズの主な登場人物について整理しておこう。
 バーク。恐怖ゆえの用心深さによって生き残りの達人となった。詐欺をはじめ、表に出せないさまざまな仕事で生計を立てている。児童虐待事件の調査に異様な情熱を燃やす。
 母親は娼婦。父親は不明。州の施設で育ち、何組もの里親のもとをたらい回しにされ、家族の団欒とは縁のない世界で成長した。
 だが、バークにも家族(ファミリー)がいる。血はつながっていないものの、自らの意思で結びついたファミリーが。
 父--プロフ。黒人の浮浪者。予言者(プロフェット)であり、教授(プロフェッサー)でもある。刑務所でバークと知り合い、この過酷な世界で生き延びるための知恵を彼に授けた。
 母--ママ・ウォン。怪しげな中華料理店を経営する中国人。彼女がふるまう酸辣湯をバークたちが味わう場面は、シリーズの読者にはおなじみの光景だろう。
 兄弟--マックス。チベット系(作品によってはモンゴル系とされる)の武術の達人で、心強い助っ人。耳が聞こえず、言葉も話せないが、身振り手振りだけで充分に意思を通わせている。『赤毛のストレーガ』で出会ったイマキュラータとの間に、フラワーという娘がいる。
 妹--ミシェル。男の体に女の心を持って生まれてきた元男娼。長年、性転換手術を受ける直前で踏みとどまっていたが、『嘘の裏側』でついに手術を受けた。
 ミシェルには息子がいる。『赤毛のストレーガ』で、バークたちが幼児売春の元締めから救出したテリイだ。さまざまな知識を身につけ、本書でも成長した姿で登場する。
 父親としてテリイを教育するのが、天才的な科学者にして技術者のモグラである。ガラクタ置場に住む無口なユダヤ人で、ナチ狩りには強い情熱を見せる。
 『サクリファイス』で登場したクラレンスは、プロフの新たな息子としてファミリーに加わる。西インド諸島出身の若きガンマンだ。
 もう一人(?)重要なメンバーがいる。子犬の頃からバークに育てられた雌のナポリタン・マスチフ、パンジイだ。旺盛な食欲と巨体と獰猛さの持ち主である。
 このファミリーからは、血縁という要素がほぼ排除されている。マックスとイマキュラータの娘フラワーは貴重な例外だ。特に、ミシェルとバークは生殖能力を失っているため、血のつながった子供を得る機会は閉ざされている(念の入ったことに、犬のパンジイも交尾に興味を示さない)。だが、彼らが血縁の欠落に引け目を感じることはない。家族であるために、血など特に意味はないと考えているのだ。

 そして、バークと関わりを持つ女たちがいる。シリーズ第一作『フラッド』から第五作『ブロッサム』までは、常にヒロインの名前が題名になっていた。
 フラッド。日本で修行を積んだ武術家。親友の娘を殺した幼児虐待者・コブラを追う過程でバークと出会い、深い仲になるものの、コブラを倒した後は日本へと旅立った。バークがしばしば回想する女性である。
 ストレーガ。燃えるような赤毛と、他人を支配するような魔性の持ち主。事件の依頼人としてバークの前に現れた。シリーズにはその後も時々登場し、本書でも重要な役割を担っている。
 ベル。悲しい生い立ちを背負ったストリッパー。一途にバークを愛する(そのひたむきさは、あまりにも男に都合がよすぎやしないかと思えるくらいだ)が、悲劇的な結末が待ち受けていた。
 キャンディ。バークの幼なじみで、売春婦。娘のエルヴァイラを怪しげな新興宗教から連れ戻すようバークに依頼する。
 ブロッサム。ウェイトレスとして働きながら、妹を殺した犯人を追う新米医師。このシリーズのヒロインにしては珍しく、妹の死を除けば悲劇的な過去を背負っていない。
 『サクリファイス』以降は、タイトルからヒロインの名前が消える(本書『クリスタル』も、原題は“Choice of Evil”だ)。ただし、『サクリファイス』は別として、それ以降の作品でヒロインに当たる存在を探すことはさほど難しくない。
 『ゼロの誘い』の、バークを倒錯プレイに引きずりこもうとするSM嬢ファンシイ。
 『鷹の羽音』で、連続レイプ殺人をめぐる厄介な事件にバークを巻き込む女刑事ベリンダ。
 『嘘の裏側』に登場するヘザーは、弁護士カイトのボディーガード。雇い主のカイトに熱烈な敬意を抱いている。
 そして、クリスタル・ベス。『セーフハウス』と本書に登場する。ストーカーから逃れる女たちに隠れ家(セーフハウス)を提供する。ベル以来、久しぶりにファミリーに関わってきた女性でもある。
 こうしたヒロインたちと立場は異なるが、エヴァ・ウルフもまたシリーズで重要な役割を果たす女性だ。『赤毛のストレーガ』で検事補として登場した彼女は、児童虐待者、性犯罪者には容赦をしない。日常的に法を犯すバークとも、利害が一致すれば協力する。その妥協を知らない姿勢が災いして、職を追われた彼女だが、民間で似たような活動を続けている。ただし、裏の社会と手を結ぶことも辞さなくなった彼女は、もはや「こちら側」の住人と言っても過言ではない。バークとは「同志」だが、微妙な距離を保っている。それは、「あなたとわたし、なるようにはならないわね」(『サクリファイス』より)という台詞にも表われている。

 大事な存在と言えばもう一人、シリーズを語る上で欠かせない人物がいる。
 ウェズリイ。バークの幼なじみだが、バークよりはるかに荒涼とした世界に生きる、何者も信じない一匹狼だ。『ハード・キャンディ』の結末で死んだとされている。バークが最も恐れる冷酷な殺し屋だが、単純な悪役ではない。バークの鏡像ともいうべき存在で、ほんの少し歩んだ道が違っていれば、彼もまたウェズリイのようになっていたかもしれないのだ。

 本書『クリスタル』では、このウェズリイの影が物語を覆っている。
 バークは警察の家宅捜索で住み慣れたアジトを失い、あわやパンジイまで失うところだった。そのころ、ゲイの集会が何者かに銃撃され、参加していたクリスタルが死んだ。バークは彼女の復讐のために銃撃犯の正体を追う。一方、この事件をきっかけに、“ホモ・エレクトス”と名乗る殺人者が、ゲイを虐待する者を次々と血祭りに上げ、やがて児童虐待者も標的にする。その殺戮の手口は、死んだはずのウェズリイによく似ていた。そして、ある同性愛者グループの依頼で、バークは“ホモ・エレクトス”に接触を試みる……。
 やっかいなことに、“ホモ・エレクトス”が殺す相手はバークの敵と重なっている。殺戮の手口こそウェズリイの存在を感じさせるが、行動原理はバークを思わせる。決して彼とは無関係な存在ではない。かくしてバークは、最終的には自分自身の暴力をめぐる行動規範も問いなおすことになる。
 後半、バークが“ホモ・エレクトス”と接触してからは、物語はこれまでの作品にもなかったような奇妙な展開を見せる。だが、注意深く読んでいただきたい。“ホモ・エレクトス”と暴力のかかわりについて。彼の「邪悪の選択」について。それは、バークとも縁の深い世界のできごとなのだ。
 “ホモ・エレクトス”が同性愛者を狙う殺人者だったなら、「バーク対殺人者」という単純な図式に貫かれた明快な物語になっていただろう。だが、単なる「悪党狩り」を避け、読者が戸惑うような混沌とした図式を採用することによって、物語に深みがもたらされている。

 また、ファミリーがパンジイ救出に乗り出す場面や、クライマックス直前の会話に見られるように、バークたちの動機として「ファミリーのため」、あるいは「愛するもののため」という意思が前面に押し出され、ファミリーの絆が強調される。今までもそういう要素はあったが、前作『セーフハウス』からは特にその傾向が強くなっている。
 それに伴い、バークがラジオで気が滅入るようなニュースを耳にする描写が目立つようになる。ニュースが報じるのは、『嘘の裏側』に描かれたような「社会正義」が空洞化しつつある現代社会の泥沼だ。バークの周囲でも、ウルフの免職にそれが象徴されている。
 もはや「社会正義」など信じることのできない世界で、それでも拠りどころを求めてやまない彼らがたどりついたのが、ファミリーなのだ。だが、ファミリーという限られた範囲に基づく正義は、一方で危うさもはらんでいる。一線を超えてしまえば、前作のネオ・ナチのように、社会からの果てしない逸脱につながりかねない。今のところ、そうした逸脱を食い止めているのは、彼らが「ファミリー」であること--社会の次の世代を育て、守り、共に生きようとする集団であることにかかっている。

 バークはいわゆるタフガイとはかけ離れた存在だ。絶えず恐怖を感じながら、暴力と非暴力の間を揺れ動く不安定なヒーローだ。
 そして、もはや初期のような同じ物語の反復はありえない。次に何が飛び出すか、予測のつかないシリーズと化している。だから、バークに安住の地は存在しない。本書でのバークはアジトを失い、クリスタルを失った。そして最新作“Dead and Gone”の冒頭では、長年にわたるバークの仲間が命を落とす。
 確固とした信念を抱くヴァクスによる、しかし安定とは程遠いシリーズ。それはときに読む者を戸惑わせるが、混沌とした世界に生きる混沌としたヒーローは独特の輝きを放っている。

地底獣国の殺人

ミステリ
ISBN:4062731916芦辺拓/講談社文庫 (解説)

 芦辺拓氏は、先行する作品への敬意を自作での継承という形で表現することが多い。昨年(二〇〇〇年)刊行された氏の三冊の著書はその好例だ。『名探偵博覧会 真説ルパン対ホームズ』(原書房)はパスティーシュ短編集。そして、『怪人対名探偵』(講談社ノベルス)では乱歩の通俗スリラーの魅力に、『和時計の館の殺人』(カッパ・ノベルス)では横溝正史の世界に挑んでいる。

 そして、一九九七年に講談社ノベルスから発表された本書『地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人』では、往年の秘境冒険小説にオマージュを捧げている。

 秘境冒険小説とはどのようなものか、本書と関わりの深い作品から、いくつか例を見てみよう。

 まずは、本書のタイトルに織り込まれている作品から。コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫ほか)は、南米奥地に赴いた探検隊が今なお生き残る恐竜に遭遇する、このジャンルの古典とも言うべき作品だ。そして、久生十蘭「地底獣国」(ちくま文庫『怪奇探偵小説傑作選3 久生十蘭集』に収録)では、一九三〇年代のソ連の国家戦略を背景に、極東に広がる地底世界に足を踏み入れた探検隊の運命が描かれる。

 また、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』(創元SF文庫ほか)は、錬金術師の残した古文書の暗号を解き明かして火山口の下の世界へと旅する物語。本書のアララト山の設定にも影響しているようだ。登場人物の名前からは、小栗虫太郎『人外魔境』(角川ホラー文庫)や、香山滋が描く探検家・人見十吉のシリーズ(出版芸術社『月ぞ悪魔』などに収録)も視野に入っていることがうかがえる(本書の折竹十三がしばしば間違えられる「高名な探検家」について知りたい方は、『人外魔境』をお読みいただきたい)。

 これらの作品に描かれるのは、空想によって組み立てられた異世界だ。ただしそれは、現実の世界のどこかに存在することになっている。現実に存在するかのように描かれた、しかしどこにも存在しない土地。それが、秘境冒険小説に描かれる異世界なのだ。

 この異世界は、外側の世界に蹂躪されかねない危うさを抱えている。そもそも、ほとんどの秘境冒険小説は、外部から異世界へ侵入する者の物語である。時には、侵入者たちの背後にある無粋な思惑とも無関係ではいられない。

 例えば「地底獣国」がそうだ。探検隊が地底世界に降りてゆく目的は、地下洞窟の軍事利用を企むソ連の国家戦略をふまえたものである。また『人外魔境』の一編「地軸二万哩《カラ・ジルナガン》」の冒頭では、イギリスとソ連の勢力が拮抗するアフガニスタンの一角に、ナチス・ドイツが探検隊を送り込む計画が発表される。

 これらの作品は、神秘に満ちた世界を描きながら、一九三〇年代当時のきな臭い現実をしっかりと物語の中に取り込んでいる。そして、現実を空想の面白さに奉仕させてしまうような強さを備えている。

 そのような姿勢は芦辺氏の作品にも共通している。現実離れした物語であるからこそ、それが成り立つような世界を構築する手続きを怠っていない。『殺人喜劇の13人』(講談社文庫)のあとがきで、氏は「犯人がトリックを用い、探偵によって謎解きがなされるという筋立てがリアリティをもって成立する世界を作りあげること」が「本格というスタイルを現代に復活させるために不可欠な作業」だったと述べている。そして、自身の作品や他の作家の作品から例を挙げている。

 本書も同じだ。恐竜が闊歩し、伝説上の動物が息づく世界を二〇世紀の地球に置くために、まずは背景としての一九三〇年代が描かれる。

 国内では、国体に反する思想が弾圧され、日本を世界の中心に位置づける怪しげな歴史観がさかんに語られた時代(青森県でキリストの墓が「発見」されたのもこの時代のことだ)。国外では、ナチス・ドイツが徐々に牙を剥きだし、日本と中国がいよいよ戦争に突入しようとする時代。本書に描かれるトルコでも、トルコ共和国の民族主義が、国内や近隣諸国の他民族との間で摩擦を起こしていた(探検隊が滞在する国境の町ドゥバヤジットも、実は少数民族のクルド人が人口の多数を占めている)。

 ただし、このような史実をふまえて描かれるのは現実の一九三〇年代そのものではない。丁寧な取材から得られた事実をもとに構築された、いわば冒険活劇空間としての一九三〇年代である(そういえば、本書のエピローグには冒険活劇空間ならではのゲストが姿を見せている)。

 主な舞台であるアララト山は、トルコ、イラン、ソ連(当時。現在はアルメニア)の三国が国境を接する地帯に位置する。そのため、アララト山の入山には制限がつきまとう(これは現在も同じ)。政治的な理由で生じた空白地帯だ。すぐ外側には各国の思惑が渦巻くこの空白は、冒険活劇の舞台にはうってつけの場所である。

 ここに作られた秘境では、芦辺氏の想像力が自由にはばたいている。基本は古生物学の成果を参考にしているが、その枠に納まらないお遊びも見られる。とはいえ、空想が無軌道に繰り広げられるわけではない。この世界の事物は、律義なまでに本格ミステリのルールに従っているのだ。本書のトリックに触れるので詳しくは述べないが、すでに読み終えられた方は、ある生物の習性に関する記述を思い出していただきたい。

 ところで、《ノアの方舟探検隊》の物語には外側の層が存在する。シリーズ探偵・森江春策が、祖父の過去を調べている途中で謎の老人に出会い、《ノアの方舟探検隊》の物語を聴く--という部分である。この小説は、「祖父の事跡を探る森江春策の物語」の中に、老人が語る「《ノアの方舟探検隊》の物語」が含まれるという二重構造になっているのだ。

 本書での森江春策は、もっぱら物語の聞き手として登場する。秘境の物語の合間に現れて、驚いてみせたり、疑いを抱いたり、時には語り手の老人に反駁しながら、徐々に物語に引き込まれてゆく。

 このような、物語とその受け手の姿が交互に描かれる構成は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)を連想させる。

 有名な作品だが、本書と重なる部分について紹介しておこう。主人公はバスチアンという少年。彼は本屋から「はてしない物語」と題された本を持ち出して、学校の倉庫で読みふける。その本の内容は、ファンタージエンという異世界が危機に襲われる物語だ。エンデの『はてしない物語』の読者は、本に熱中するバスチアン少年の姿だけでなく、彼が読んでいる物語をも読むことになる。つまり、森江春策にとっての秘境探検物語は、バスチアンにとってのファンタージエンの物語と似たような位置にある。

 『はてしない物語』の前半のクライマックスでは、バスチアンが物語の中の世界に入ってゆく。人間界からファンタージエンにやってきて、女王に新しい名前を与えることでこの世界を救う者。それが自分だと知ったバスチアンは、頭にひらめいた女王の新しい名前を口にして、文字どおりファンタージエンの中へと飛び込んで、この異世界を作り変えてゆく。

 同じような図式が本書でも見られる。秘境冒険物語であると同時に本格ミステリでもある本書のクライマックスは、もちろん探検隊の一行を襲った惨劇の秘密が解き明かされる場面だ。探偵・森江春策は、自身の推理を語ることによって老人が語る物語に踏み込んでゆく。そして、それまでの物語を解体し、組み変えてしまう。

 バスチアンがファンタージエンへ飛び込むことと、森江が自身の推理を語ることとでは、それぞれの作品における位置付けが異なる。ただしこの瞬間、バスチアンも森江も、入れ子になった物語の向こう側に足を踏み入れているという意味では同じ立場にいる。

 もちろん、ファンタジー小説の登場人物であるバスチアンとは違って、森江は何も時間と空間を超えるわけではない。実際、作中の森江の行動といえば、老人に向かって自らの推理を語っているだけである。

 にも関わらず、彼は確かに祖父が登場する物語の中にいる。それは、ミステリ的な叙述トリックによるものではない。技巧的だがストレートな語りだけで、現代の森江春策と三〇年代の探検隊の一行が同じ場面に立つのだ。その瞬間、二重構造の物語が一つに融合し、最大の見せ場はさらにスリリングなものになっている。

 このような仕掛けからは、芦辺氏が「何を語るか」だけでなく、「どのように語るか」ということにも非常に気を配っていることがうかがえる。

 その芦辺氏の中にはどうやら「子ども」が潜んでいるらしく、いくつかの作品に痕跡をとどめている。たとえば、氏のパスティーシュ短編ではしばしば複数の名探偵が共演している。これは、「あのヒーローとこのヒーローはどっちが強いのか」「もしもこのヒーローたちが共演したら」という子どもならではの思いつきを、自らのペンで実現させたものではないだろうか? あるいは、『不思議の国のアリバイ』(青樹社)に見られる特撮映画への愛着にも子どもの顔がのぞく。そして何より、本書である。「恐竜が闊歩する世界での謎解き」という、一歩間違えば荒唐無稽になりかねない思いつきを、一冊の小説にまで膨らませるのは、子どもの奔放な想像力のなせる業だろう。

 ただし、氏の作品世界は決して「子どもの夢」だけで成り立っているわけではない。「子どもの夢」にしっかりした土台を持たせているのは、綿密な取材と精緻な考証という「大人の仕事」である。

 それは、現実との距離を念頭においたバランス感覚とも言える。「子どもの夢」を完全に切り捨ててしまったら、新聞の社会面と変わらないような味気ないミステリになってしまうだろう。また、「子どもの夢」が何かの免罪符であるかのように、現実との距離を見失ったまま独りよがりの夢想を語ったところで、新史学のような妄想の張子ができるだけだろう(まあ、トンデモ本としては魅力的かもしれないが……)。

 前述の『はてしない物語』の後半には、ファンタージエンで現実を見失い、もとの世界に戻れなくなったバスチアンの姿が描かれる。いくつもの苦難を乗り越えて、少年はひとまわり成長して現実世界に帰ってくる。そんなバスチアンに、彼が「はてしない物語」を持ち出した本屋の主人は言う。
「絶対にファンタージエンにいけない人間もいる。いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージエンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」
芦辺氏のような書き手がどのタイプに属するかは、あらためて言うまでもないだろう。
  • 地底獣国の殺人 Bookstack 古山裕樹
    ■2008/01おことわりこのサイトの2000年頃の読書録は全部そうだけど、この文章はreview-japanというレビュー投稿サイトに書いたもの。まさか後に自分が文庫解説を書くことになるとは思わなかった。■人外魔境で謎解きを 時は1930年代、日本が急速...

そして粛清の扉を

ミステリ
そして粛清の扉を 黒武洋 / 新潮社

 柳の下でドジョウを探すのを商売の基本とすることのよしあしはさておき、その実例は珍しくない。この本もそんな一冊だ。柳の名前は『バトル・ロワイアル』。

 新潮社の第1回のホラー・サスペンス大賞受賞作である。この受賞は角川のホラー大賞との差別化狙いだとか、内容が内容だけに、少年犯罪の犯人を実名報道しちゃう新潮社ならではだとか、いろいろ下司のかんぐりができる作品でもある。

 娘の死をきっかけに、良心の最後の一線が切れてしまった女性教師が、銃や爆薬で武装して生徒を人質に立てこもる。警察が包囲する中で、生徒を次々と血祭りにあげ、やがてマスコミを使ってある要求を出す……という悪趣味な話だ。

 悪趣味ぶりが最も露骨に出ているのは、生徒の描かれ方。この小説に登場する高校生たちの立場は、極言すればヒロインの教師に「駆除」される「害虫の群れ」でしかない。ひとりひとりの個性がそれなりに描かれていた『バトル・ロワイアル』と比べれば、その違いは明白だ。

 ちなみに、傷をつつけばきりがない作品でもある。特に困ってしまったのは文章。私は「下手な文章」に対してはかなり鈍感ないし寛容だと思うのだが、さすがにこの作品の不可解な表現の数々には戸惑った。せめて次作以降は、もうすこし文章をどうにかしてほしいものである。

 とはいえ、そういうマイナスを補って余りある楽しさがあるのもまた事実。うかつに寝る前に読み始めると、確実に睡眠時間を削ってしまうだろう。今年のベスト級かもしれない(と、2月に言うのはいかがなものか)。こういうものを楽しく読んでいる自分に気づいたとたん、ふと後ろめたさを感じてしまう。そういう感情を起こさせた上で、なおかつ読ませてしまうのはたいしたもの。

 ちなみに、こんな作品がお気に召した方には、ベン・エルトン『ポップコーン』(ミステリアス・プレス文庫)もおすすめ。

Mr.クイン

ミステリ

ラディカル・シニカル・パズル

Mr.クインシェイマス・スミス / 黒原敏行訳 / ミステリアス・プレス文庫

 クインは麻薬王の影のブレーン。完璧な犯罪計画を立て、それをボスに伝授する。彼の存在を知るのはボスただ一人。彼の存在は腹心の部下たちにも知られていない。

 クインがめぐらす犯罪計画は綱渡りに似ている。危ない橋も渡ってみせるが、落ちたときのために網を張っておくことも忘れない。

 作中、クインはしばしば意図の読めない指示を下す。犬を飼え、壊れた携帯電話を用意しろ、などなど。その多くが実はこうした予防措置なのだ。数々の謎めいた指示が効果を発揮する後半は、クインたちの計画をかぎつける新聞記者の存在も手伝って、さながら謎解きミステリの解決シーンのような楽しさがある。

 完全犯罪めざして計画を練る犯罪者といえば、ほかにはリチャード・スターク描く悪党パーカーが有名だ。どちらも犯罪をビジネスと割り切っていることは共通している。冷酷ではあるが残酷ではない。綿密な下調べの上に計画を立て、日ごろからリスクマネジメントを怠らない。まっとうな仕事に就いていても、それなりに成功しそうな人物である。

 だが、パーカーとクインのあいだには大きな違いがある。

 それは家族の存在だ。

 パーカーは家族らしい家族を持たない。

 子供はいないし、第一作からすでに夫婦関係の破綻した男として登場する。しいて挙げるなら、愛人のクレアぐらいか。

 クインには妻子がいる。犯罪計画と並行して、クインの浮気が妻にばれてさあ大変、という騒動が描かれる。妙な屁理屈をこねて自分を正当化してみたり、ブラックではあるがユーモラスな一幕だ。

 だが、クインの家族に接する姿勢を見るがいい──その冷酷なまでの計算高さは、犯罪者としての彼の姿勢とまったく同じだ。浮気はあっけなくばれてしまうものの、その後は彼ならではの危機管理の手腕が発揮される。

 パーカーは家族を持たないからこそ、読者にそういう面を見せずにすんでいた。いや、彼はアンチ・ヒーローというよりは、たまたま犯罪を生業とする冷酷なだけのヒーローなのかもしれない。なにしろ愛人のクレアが人質にとられたときには、その身を案じて無理をしたこともあったくらいだから。

 クインは違う。家族でさえも「ビジネス」と同じような計算の対象にしてしまう。家族といえば利益関係以外のなにかで繋がっている存在、少なくともそういうことになっている。そんな幻想を軽妙に、しかし冷たく笑い飛ばしてしまうのがクインという男である。

 正統派アンチ・ヒーローの登場だ。