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2000年7月の日記

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ポップコーン

ノワール
ポップコーン ベン・エルトン / 上田公子訳 / 早川書房(→ミステリアス・プレス文庫

 暴力的な映画で物議をかもすブルース・デラミトリ監督がオスカーを手にした夜。美人モデルを連れて帰宅した彼を待っていたのは、彼の映画からそのまま出て来たような、逃走中の無差別殺人カップルだった。ブルースたちを人質に取った彼らは、警察とマスコミに意外な要求を突き付ける……。

 ハリウッドが舞台だが、作者はイギリス人である。デラミトリ監督のモデルは、もちろんタランティーノ。全編をおおうブラックなジョーク、そして皮肉な展開を読んでいると、確かに「アメリカ的」というよりは「イギリス的」という気がする。イギリスというと、ついつい「モンティ・パイソン」なんぞを思い浮かべてしまうせいだろうか。

 スピーディな展開につられて、すいすい読めてしまうが、実は重いテーマを扱っていたりする。

 ひとつは、映画などの創作に影響されて犯罪が起きることがあるのか、というもの。日本でも、凶悪犯罪が起きると、TVドラマの暴力描写やらホラー映画なんかをやり玉に挙げたがる人がいるけれど、それと同じだ。

 もっとも、あれは暴力犯罪を犯す人間が暴力描写を好む傾向が強いということであって、因果関係のとらえ方が逆ではないかと思うのだけれど。

 そして、もう一つのテーマが「責任」だ。「社会が悪い」「病気だから」などなど、何かしら自分以外のものに責任を転嫁したがる姿勢。ま、日本でも流行ってますね。そういう意味では、この本の結末はきわめて皮肉だ。

 が、とても真剣に受け止める気になれないような書き方をしているあたりに、この作者のイギリス的なひねくれ具合を感じる。

 なにしろ作者がこのテーマを浮かび上がらせれば浮かび上がらせるほど、「だったらおまえはどーなんだよ」と読者がツッコミたくなるような構造になっているのだから。

ギャングスタードライブ

犯罪小説
ギャングスタードライブ 戸梶圭太 / 幻冬舎(→幻冬舎文庫

 ダンサーくずれの女・敏子に、母の旧友・麗子が持ち込んだ依頼。それは、麗子の別れた夫のもとで暮らしている彼女の娘・理沙を誘拐することだった。押し切られるようにして依頼を請け負った敏子は、幼な馴染みでヒモ暮らしの男を相棒に、誘拐計画に臨む。しかし、彼女の別れた夫・小笠原は、暴力団の組長なのだ……。

 誘拐犯と暴力団のカーチェイス。随所にはさまれたヒネリのきいた展開。描かれる家庭像は現代的ではあるが、でもそれを深刻な面持ちで語るようなことは決してしない。どこかヘンなキャラクター同士の絡み合い(誘拐される少女と大薮春彦マニアのやくざは強烈な印象を残す)に、最後の最後まで先の読めない展開、そして変に湿っぽくならない筋運びには好感が持てる。「和製タランティーノ」というたたき文句もなかなか的を射ているのではないだろうか。私はエルモア・レナードをふと思い浮かべた。

 それはさておき、こういう小説でのストーリーのひねりは、謎解きミステリの解決部分に相当すると思う。序盤のシチュエーションからどんどん思わぬ方向に転がってゆく物語を楽しむためには、転がる方向を知らないでおくに越したことはない。

 だから、この本の帯には問題がある*1。中盤以降の展開をいろいろと書いているので、物語が思わぬ方向に転がってゆくという楽しさが減ってしまうのだ。人物紹介に徹するのならまだしも、内容に無闇に言及するべきではないだろう。

 『永遠の仔』を読んだときにも思ったのだが、幻冬舎はミステリの装丁に関する配慮がかなり欠けているような気がする。今後幻冬舎のミステリを手にとるときは、帯や表紙にはあまり目を通さないようにしなければ。

 もちろん、作品自体は非常に楽しく読むことができた。できれば、ハードカバーよりは文庫本で読みたい一冊。

*1 : 2008/01追記:ちなみにこれは単行本のときの話。文庫がどうだったかは知らない。

信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス

伝奇小説
信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス 宇月原晴明 / 新潮社 (→新潮文庫

 1930年、ベルリン。アルコールに溺れながら撮影所通いの日々を過ごすアントナン・アルトーのもとを訪れた一人の日本人青年は、ローマ皇帝ヘリオバルガスと織田信長の意外なつながりを彼に説いた。二人はどちらも、古代シリアで崇拝された太陽神の落とし子である、と。青年の家に伝わる口伝によれば、信長は両性具有者であったという……

 第11回日本ファンタジー小説大賞受賞作。いわゆる伝奇小説と呼ばれるタイプの作品であり、ある史実について、奇想に満ちた裏側、いうなれば「幻の歴史」を提示することに力が注がれている。

 にわかに話は変わるが、ミステリに描かれるモチーフに「見立て殺人」というものがある。何かの歌詞や物語の筋立てをなぞるかのようにして事件が起きる、という趣向だ。マザー・グースの歌詞どおりに殺人事件が起きる、というミステリは昔の英米でさかんに書かれた。日本でも、俳句の情景と同じように人が殺される『獄門島』(横溝正史)などの例がある。そして、本書で「幻の歴史」を提示するために用いられるのが、この手法である。

 ここでの主役は言うまでもなく信長。史実における彼の行動が、異なる物語と重ねあわせられる。この「物語」の選択の妙、そして重ね合わせ方の巧みさが、本書を奇想に満ちた作品に仕上げている(特にクライマックスとなる本能寺の変のくだりは、紡ぎだされるイマジネーションの豊穣さにただただ圧倒されてしまう。異様なまでに理詰めの幻想がもたらすこの場面の迫力、まさしく謎解きミステリの解決編に近いものがある)。

 「見立て殺人」を扱うミステリの解決で重要なのが、「なぜ犯人はこんな手間のかかることをやったのか?」という理由の提示で、これが「犯人が精神異常者だったから」などという安易な解決だったりすると非常に悲しい。

 本書では、この「理由」の解決がきわめて論理的になされている。もちろん、その「論理」は日常レベルのものではなく、いわば異界の論理なのだが。このような、幻想をもとに組み立てられた「異界の論理」で史実を解釈し、読み替えるという方法論が、本書の魅力の源泉だろう。

 1930年代のベルリンから信長の物語をふりかえるという本書の構成は、信長の素性に関する物語を語る上で、同時代人の視点だけでは不足だからだろう。イエズス会士たちにその任を負わせることも可能だろうが、あまり異教の細部に通暁しているイエズス会士というのも問題がある。

 そして、当時のベルリンに何が存在したかは挙げるまでもないだろう。かくして古代の異教と信長の時代に加えて、大戦前夜のベルリンまでもがつなぎ合わされる。ここでアントナン・アルトーという人物の登場も、物語が彼を必要とするからなのだ。かくして、後半にはもう一つの「見立て殺人」が描かれる。

 歴史に翻弄されてしまったアルトーの末路の哀しさと、エピローグのささやかな爽快感とのバランスも快い。

怪人対名探偵

ミステリ

よみがえる探偵小説

怪人対名探偵 芦辺拓 / 講談社ノベルス

 子供のころ、ポプラ社から出ていた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズをよく読んでいた。

 このシリーズ、50巻くらい出ていたと思うが、後半は『魔術師』『黄金仮面』など、もともと大人向けに書かれた猟奇的なスリラーを子供向けにアレンジした作品が収録されていた。

 これを読むのがけっこう後ろめたかった。例えば『蜘蛛男』なんて「猟奇殺人者が次々と誘拐した女性を虐待して殺す」という話。立派な「悪書」だ。ポプラ社もよくこんなのを子供向けに出したものである。願わくば、世の教育熱心な親御さんたちが乱歩の正体に気づきませんように。

 『怪人対名探偵』は、そんな乱歩作品へのオマージュだ。

 舞台は現代。怪人「殺人喜劇王」が次々と起こす残虐な殺人。これを防ごうとする名探偵とその助手。果たして両者の対決の行方はいかに……?

 気球、マネキン人形、時計台、大観覧車、パノラマ、映画館、謎の客船……。

 乱歩のスリラーにあふれていた小道具がいたるところに飛び出すだけでなく、Eメールやビデオといった現代ならではの小道具も、作品のムードを損なうことなく取り入れられている。

 ちょっぴりメタフィクション風な仕掛けも施されているのは、やっぱり「新本格」以降の作家だからだろうか。

 探偵役はこの作者のレギュラー登場人物である森江春策。茫洋とした雰囲気の好人物で、強烈な個性を放つタイプではない。だから、例えば「きゃああ(御手洗/榎木津/火村)さぁん」な読者には物足りないのかもしれない。

 しかし、こういう強烈でない探偵のほうが、怪人が大暴れするような小説にはむしろ似合っているのではないだろうか。怪人の奇矯さを際立たせるには、同じように奇矯な探偵よりも「有能な常人」のほうが有効だ。

 あいにく、作者は乱歩みたいな筋金入りの変態ではないようで、原典に比べればいささか薄味なのは否定できない。

また、細部の整合性が怪しいところ、無理があるところ、説明不足なところもないではない。

 でも、それがどうしたと言うのだろう?

 この作品について、「本格ミステリとしての整合性が云々」なんて野暮なことを言う奴は、とっとと殺人鬼に切り刻まれてしまえ(絶世の美女ならなお良い。でも、美女なら野暮な台詞は口にしないで欲しいなあ)。これはあくまでも、乱歩の猟奇変態スリラー同様、変幻自在の展開の面白さで読ませる作品なのだから。「精緻な本格ミステリとしての完成度」なんて、この勢いを犠牲にしてまで求めるべきものとは思えない(だから、メインの仕掛けもいたってシンプル)。

 少年探偵団ものと猟奇スリラーとを同時期に読んだ人々にはおすすめの一冊。派手な殺人劇と並行して、ですます調で「名探偵」と「少年助手」のやりとりが随所に挿入されているのも、そんな読者の思い出を刺激するためだろう。

 ある種の読書体験を持つ人々を対象とした「内輪」向きの作品ではあるが、「本格ミステリ」の作家が「本格ミステリ」へのオマージュを書くような自家中毒状態に比べると、微妙な射程のずらし方が幸福な結果を生んでいる作品だと思う。

……少年時代の思い出を巧みにくすぐられた私は、もはや何でも許す心境になっている。